リボーの連覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
1955年の凱旋門賞は史上最多となる156頭の登録があった。この中には、フランス、アメリカ、イタリア、アイルランド、ドイツのダービー馬が9頭含まれており、凱旋門賞の国際的評価が定着しつつあることを示していた。しかしこれらのほとんどは凱旋門賞の前に引退してしまったり、怪我で休養に入ってしまったりして、実際に出走したのはフランスダービー(ジョッケクリュブ賞)馬のラパスとアイルランドダービー馬のザラズーストラの2頭だけだった。イタリア三冠馬のボッティチェリ(Botticelli)も登録していたが結局出走は取りやめて、代わりに僚馬のリボー(Ribot)がイタリア代表としてやってきた。 リボーはフェデリコ・テシオの忘れ形見で、クラシックは登録がなく未出走だったものの、無敗であった。しかし、フランス人もイギリス人も、リボーの実力を計りかねていた。イタリア三冠馬のボッティチェリに唯一土をつけたイタリア馬は1952年の凱旋門賞にたった1頭の外国馬として出走したオワーズだった。オワーズはその凱旋門賞で10着だった。そしてリボーが勝ったことがあるただ1頭の一流馬がオワーズだった。 リボーは馬なりで後続に3馬身差をつけて凱旋門賞に勝ち、イタリアに22年ぶりの栄冠をもたらした。後になって明かされたが、リボーは最終追い切りで鞭を使わずに三冠馬ボッティチェリを4馬身ちぎっており、関係者はボッティチェリが故障したのかと誤解するほどだった。リボーは凱旋門賞のあと、ワシントンDCインターナショナルの招待を断って、2週間後のジョッキークラブ大賞に出走した。ここでもリボーは15馬身差で圧勝した。 リボーは翌1956年、イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを5馬身差で勝った。この結果、リボーは初めて凱旋門賞とキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスというヨーロッパのニ大国際競走を制覇した競走馬となった。 リボーは15戦無敗のまま凱旋門賞を連覇するために登場したが、これに挑戦してきた「向こう見ず」な19頭の中には、アメリカからやってきた2頭の馬も含まれていた。2頭はワシントンDCインターナショナルの優勝馬フィッシャーマン(Fisherman)と、この年のアメリカのフリーハンデでトップにランキングされたキャリアボーイ(Career Boy)である。アメリカ馬がヨーロッパに遠征してくるのは20年ぶりのことで、凱旋門賞の主催者は、「自分たちのチャンピオンの評価が傷つく危険を冒して」まで大西洋を超えて遠征してきた両馬に対して深い謝意を表した。 レースはスタートと同時にフィッシャーマンが飛び出してペースメーカーを務めた。キャリアボーイに騎乗したエディ・アーキャロ騎手は40歳のベテランで、最終コーナーでは勝利を確信していた。しかし、リボーはたったの2完歩で抜けだすと、鞭を使うまでもなく6馬身離して勝った。リボーは「今世紀最高の名馬」との名声を得たが、この凱旋門賞で敗れた馬がイギリスのチャンピオンステークスやアメリカのワシントンDCインターナショナルを勝ったことで、その評価はますます高まった。
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