リッペ=デトモルト侯国になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 20:46 UTC 版)
「リッペ侯国」の記事における「リッペ=デトモルト侯国になるまで」の解説
リッペ侯国となる領邦の元祖はベルンハルト1世である。1123年にベルンハルトは神聖ローマ帝国のロタール3世から領地を拝領し、リッペ領主 (Herr zur Lippe) の称号を称した。ベルンハルト1世の後継者は複数の郡の保持し獲得した。ジーモン5世治世に初めてリッペ伯を自称した。 ジーモン6世の死後、侯国は3つの国に分裂する。ジーモン7世はリッペ=デトモルト、オットーはリッペ=ブラーケ (Lippe-Brake) 、シャウムブルク=リッペ家のフィリップ1世はリッペ=アルファーディッセン (Lippe-Alverdissen) を支配した。リッペ=ブラーケ郡は1709年にデトモルト本家に再統合された。一族のもう一つの分家リッペ=ビースターフェルト (Lippe-Biesterfeld) 家は、ジーモン7世の息子ヨープスト・ヘルマンによって創設された。ジーモン7世のころに三十年戦争を迎え、リッペ=デトモルト侯国は小国ゆえに中立を保つことで生き残りを図ろうとしたが、それでも外国軍による攻撃を受け、国内は激しく破壊された。 1789年にリッペ=デトモルト伯家はフュルスト(侯爵)に昇格した。 ナポレオン戦争ではライン同盟に加盟し、神聖ローマ帝国から離脱した。その後、北ドイツ連邦、ドイツ連邦に加盟し、1871年のドイツ帝国の成立には構成国の一つとして維持された。またこの時期の1836年に憲法が制定され、議会開設のための1876年には選挙法が制定されるなど、リッペ侯国は近代立憲君主制国家の装いを調えた。
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