リッペ侯位継承問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 20:46 UTC 版)
1895年にリッペ侯ヴォルデマールが子どもを儲けないまま死去し、禁治産及び統治不能宣告を受けている弟アレクサンダーが侯位を継承すると、リッペ=デトモルト家は断絶が確定的になった。アレクサンダーも子どもがいなかったためである。これは隣接するシャウムブルク=リッペ家とリッペ=ビースターフェルト家、その分家のリッペ=ヴァイセンベルク家の間で継承問題を引き起こした。ヴォデマールはリッペ=ビースターフェルト家のエルンストを嫌い、遺言で後継者に皇帝ヴィルヘルム2世の義弟であるシャウムブルク=リッペ家のアドルフを指名していた。しかし、ザクセン王アルベルトを委員長とする仲裁委員会は、アドルフをアレクサンダーの摂政に、リッペ=ビースターフェルト家のエルンストをアレクサンダーの後継者とする裁定を下した。結局この問題は、1905年のライプツィヒの帝国最高裁判所によって、リッペ=ビースターフェルト家に土地を譲渡することで決着した。この時まで同家は領地的主権はなかった。同年、アレクサンダーが死去すると、エルンストの息子のレオポルト4世が即位した。レオポルト4世は学芸を振興し、藩屏として分家を創設するなど、リッペ侯国は一応の繁栄を見た。しかし、レオポルト4世が最後のリッペ侯となる。
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