リクード結党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:22 UTC 版)
1973年、ベギンは政権獲得のため小規模政党を次々併合し、「合同」を意味する新党リクードを立ち上げる。第三次中東戦争の英雄であり、合同の発案者でもあったアリエル・シャロンを候補とし、第四次中東戦争開戦の失策による与党への不信感から獲得議席は39とこれまでから大きく伸ばした。しかし過半数には及ばず、いまだ野党のままであった。 ところがその後、第四次中東戦争の戦況が芳しくない様相を呈すにつれて、政府への批判は日に日に高まっていった。また、予てからイスラエル政府にセカンドクラスの国民として扱われていると感じていたミズラヒム(Mizrahi中東からのユダヤ系移民)がベギンの主張する世俗ではないユダヤ主義的思想に共感し、彼らがリクードの支持基盤となっていった。さらに与党内部での右派宗教勢力の分裂騒動やイツハク・ラビン内閣で汚職問題が発覚したこともあり、ついにリクードはイスラエル建国以来約30年目にして初めて労働党を与党の座から退かせることに成功する。
※この「リクード結党」の解説は、「メナヘム・ベギン」の解説の一部です。
「リクード結党」を含む「メナヘム・ベギン」の記事については、「メナヘム・ベギン」の概要を参照ください。
- リクード結党のページへのリンク