ラヴォ王国とは? わかりやすく解説

ラヴォ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/07 07:00 UTC 版)

ラヴォ王国
450年 - 1388年

11世紀のラヴォ王国(水色)
公用語 モン語
首都 ラヴォ(-1087年)
アヨダヤ(1087-1388年)
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
設立 450年
アユタヤ王国に併合 1388年

ラヴォ王国(ラヴォおうこく)は、チャオプラヤ川左岸の上流からドヴァーラヴァティー王国の領域まで達する、1388年まで存在した国家(マンダラ論も参照)。発祥地はラヴォ (Lavo、現在のロッブリー)であるが、都は11世紀頃に南のアヨダヤに移り、近年の歴史分析によるとこれがアユタヤ王国になった。

歴史

ラヴォの伝説上の最初の王とされるプラヤ・カラヴァーナディトゥ (Phraya Kalavarnadit) は、ドヴァーラヴァティーの都市国家群の1つとして450年頃にラヴォの街を建設したといわれている[1]。カラヴァーナディトゥはチュラサカラジュ (Chulasakaraj) と呼ばれる新しい時代を創り、チュラサカラジュはシャム人ビルマ人によって19世紀まで続いた。チェンライシャーナヴァルマン1世英語版は7世紀の遠征で影響力をチャオプラヤ谷まで広げた[2]。チェンラの覇権に屈したドヴァーラヴァティー都市群はラヴォとなり、西の都市群はスワンナプームを形成した[3]。ラヴォはクメールがドヴァーラヴァティーを支配する中心だった。

クメールの影響下の建築と思われるプラーン・サームヨート寺院

初期のラヴォの母語はモン語だけと考えられている。しかし、ラヴォがモン族だけの国であったかには議論がある。それでもなお、ドヴァーラヴァティー時代初期にはマレー人クメール人の故郷でもあった。歴史家の中には、ラヴォはモン族とラワ族の混合[4][5]で、モン族が支配層であったと主張する者もいる。ラヴォ王国支配期にタイ族がチャオプラヤ谷に移住して来たという仮説もある。クメールからのヒンドゥー教や大乗仏教の影響は大きかったが、ラヴォでは上座部仏教が主要宗教であり続けた[6]。 7世紀後半、ラヴォは北に拡大した。モン族の国家であるハリプンチャイ王国の初代支配者のチャマデヴィ英語版はラヴォ王の娘といわれている。ラヴォ王国の起源に関する資料は少なく、今、分かっている情報のほとんどは考古学的調査による。の年代記は、ラヴォ王国が唐に「トウ・ホ・ロ」として朝貢したと記録がある。玄奘三蔵の日記では、ドヴァーラヴァティー・ラヴォを「トウ・ロ・ポ・チ」という名で、チェンラとパガン王朝の間の国と述べている。では、ラヴォは漢語で羅渦(ロ・ホウ)として知られていた。10世紀頃、ドヴァーラヴァティーの都市国家郡は2つの曼荼羅、すなわちラヴォ(現代のロッブリー)とスワンナプーム(現代のスパンブリー)に合併した。北方伝記によると903年にタンブラリンガ英語版の王はラヴォを侵略し、マレー人の王子をラヴォの王とした。マレー人王子はアンコール大虐殺を生き延びたクメール人王妃と結婚した。彼らの子はクメール王スーリヤヴァルマン1世となり、ラヴォはクメールと同じ王を載く属国となった。スーリヤヴァルマン1世はイサーンに領土を拡大し、多くの寺院を建てた。11世紀にはビルマ系のパガン王朝の成長によってラヴォへのクメールの影響は弱まった。1087年にラヴォはパガン王のチャンシッターによって侵略されたが、ラヴォ王のナライ (Narai) はパガン軍を撃退し、クメールとパガンの覇権の間で存在感を増した。ナライは都をアユタヤ市に移した[7]。また、西のスワンナプーム王国に影響を及ぼし、徐々に都市を奪っていった。ジャヤーヴァルマン7世の代にもクメールによる侵略は続いた。この時期、ラヴォはクメールに宗教的に同化され、ヒンドゥー教と大乗仏教が主流になった。クメールの影響はラヴォの芸術や建築にも及び、プラーン・サームヨート寺院が代表的である。1239年、スコータイタイ族支配者がラヴォからの独立を宣言し、スコータイ王朝が生まれた。タイの年代記では、ラヴォは「クメール」と呼ばれ、13世紀にはラヴォはスコータイ王のラームカムヘーンの拡大政策によって徐々に領土を減らし、中心地であるラヴォやアユタヤを奪われた。アヨダヤ王国第10代王(ナライを初代とした場合)のヴォラチェトゥは、アユタヤ王国のラーマーティボーディー1世(ウートーン)と同一視されている[7]。ラヴォのラーマーティボーディー1世とアユタヤ王のパグワはともに新アユタヤ市を創り、ラーマーティボーディー1世はアユタヤ市の王となった。しかし1370年にパグワはアユタヤ市をラーマーティボーディー1世の子のラーメースワンから奪い、ラーメースワンは故郷のラヴォに帰った。1388年にラーメースワンはアユタヤ市をパグワの子のトーンチャンから奪い返した。パグワの甥のナカリンタラーティラートは1424年にアユタヤ市をスワンナプーム王国に取り返した。ラヴォの関係者は粛清され、16世紀まで一貴族として存続した。

脚注

[脚注の使い方]

関連項目


ラヴォ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:55 UTC 版)

タイの歴史」の記事における「ラヴォ王国」の解説

詳細は「ラヴォ王国」を参照ロッブリー歴史英語版)」も参照 モン族連合国家ドヴァーラヴァティー時代には、ラヴォ(ロッブリー〈羅斛〉)はすでに中心地1つであったが、9世紀頃よりクメール王朝影響を受けるようになると、クメール拠点としてドヴァーラヴァティーより独立したラヴォ王国が建国された。 11世紀初頭クメールの王スーリヤヴァルマン1世英語版)(在位1002-1050年)が即位すると、チャオプラヤー川流域まで領土拡大したクメール領有された。その後1113年即位したスーリヤヴァルマン2世在位1113-1150年)が死去すると、ラヴォはクメールから離反する動き見せ1155年中国使節送っているが、クメール支配13世紀まで続きジャヤーヴァルマン7世在位1181-1218年/1220年)の時代のものとされるクメール建築英語版様式寺院プラーン・サームヨート存在知られる13世紀中頃タイ族によるスコータイ王朝成立により、クメールのラヴォの支配衰退した13世紀末にはタイ族勢力強まり1289年より1299年まで元に使節を送るなど独立動き14世紀アユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティー中心地1つであったスパンブリーとともに重要な位置占めるようになっていた。

※この「ラヴォ王国」の解説は、「タイの歴史」の解説の一部です。
「ラヴォ王国」を含む「タイの歴史」の記事については、「タイの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ラヴォ王国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ラヴォ王国」の関連用語

ラヴォ王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ラヴォ王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのラヴォ王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのタイの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS