ララミー砦条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 10:04 UTC 版)
「レッドクラウド戦争」の記事における「ララミー砦条約」の解説
アメリカ軍は常にカーリントン大佐がインディアンに対して攻撃的行動を採るよう要求してきたが、そのカーニー砦の後継者、ウェッセルズ将軍はインディアンに対して大きな攻勢を採ることはなかった。1867年晩夏まで、ヘイフィールドの戦闘やワゴンボックスの戦闘でスー族に対する成功があったにも拘らず、連邦政府はパウダーリバー・カントリーで費用が掛かり生産的でない軍隊を置くことよりも大陸横断鉄道のほうがよりましな選択肢だと結論付けた。大陸横断鉄道はワイオミングの南西部からソルトレイクシティに向かい、ブリッジャー・トレイルを使う経路を選んだ。 1868年8月に和平委員会がララミー砦に派遣された。レッドクラウドを「大指導者」だと勘違いしたままの和平委員会は、スー族の長老会議を差し置いて彼との面談を求めた。しかしレッドクラウドはバッファロー狩りに出かけていて会談をすっぽかし、11月までララミー砦に現れなかった。 1868年、和平委員会は「レッドクラウドが署名すればスー族はすべて従うだろう」との思い込みから、レッドクラウドと、その友人のスポッテッド・テイルに、パハ・サパ(ブラックヒルズ)を含む「グレート・スー・ネイション(偉大なるスー族の国)」を確約した第二次ララミー砦条約(英語版)に調印させた。この調印というのは、文字を持たないインディアンに「×印」を書かせたものである。シッティング・ブルやクレイジー・ホースは、会談には現れなかった。 スー族のこの保留地(Reservation)は現在のサウスダコタ州西部をすべて覆う規模だった。さらに、パウダーリバー・カウントリーは新しい保留地に住むことを選ばなかったダコタやラコタ族のための保留地、かつラコタ族全てのために狩猟用保留地として、割譲されない領土と宣言され、三つの砦は閉鎖された。 1874年、和平委員会はララミー砦の条約を早くも破り、ブラックヒルズの権利を譲れとスー族に要求した。「レッドクラウド管理所」の管理人となっていたレッド・クラウドは「ブラックヒルズはどうせ白人のものになるのだから、出来るだけ高い値で売るべきだ」と主張した。結果、彼やスポッテッド・テイルの署名もあって、ブラックヒルズは白人に没収された。
※この「ララミー砦条約」の解説は、「レッドクラウド戦争」の解説の一部です。
「ララミー砦条約」を含む「レッドクラウド戦争」の記事については、「レッドクラウド戦争」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からララミー砦条約を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からララミー砦条約 を検索
- ララミー砦条約のページへのリンク