ユヴァスキュラ時代
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「ミンナ・カント」の記事における「ユヴァスキュラ時代」の解説
父親はミンナには、裕福な家柄に嫁いでほしいと思っていたが、ミンナ本人は、将来自活するための教育的支援を受けたいと考えていた。当時、女性に開かれていた専門職は、教師および助産師に限られており、ミンナは教師になることを目指して1863年に親元を離れ、その年に設立されたユヴァスキュラ神学校(フィンランド語版)の開校初年度の学生となり、小学校教員の資格を得て卒業した。ミンナが、自らのファーストネームとして「ミンナ」を使い始めたのは、この頃からである。 神学校では、フィンランド語やスウェーデン語、数学や地理・歴史、心理学や教育学、芸術や宗教学などを履修した。この神学校で科学を教えていたヨハン・フェルディナンド・カント(フィンランド語版)と1865年4月に婚約を交わし、同年9月に2人は結婚する。結婚すると、ミンナは勉強を辞める。当時は、既婚の女性が勉強をすることは相応しくないとする風潮があった。 ミンナは生涯で計7人の子どもをもうけたが、いずれもユヴァスキュラにおいてであり、長子の誕生が1866年、末子の誕生が1880年である。夫は、パイエンネ紙(フィンランド語版)およびケスキスオマライネン紙(フィンランド語版)の2つの新聞の編集に携わっており、ミンナは1874年から1879年にかけて、これらの新聞に、女性解放などを扱った記事および短編小説を投稿した。 ミンナが書いた最初の新聞記事は、1874年にケスキスオマライネン紙に掲載された “Tyttäriemme kasvatus” というタイトルの記事であり、これによってミンナはジャーナリストとしてのキャリアを開始させた。1878年発表の短編小説『小説と物語集』(Novelleja ja kertomuksia) で小説家としてデビューする。1879年7月13日、35歳のとき、夫のフェルディナンドを亡くす。
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