ヤクザ・極道との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:20 UTC 版)
劇場の経営に乗り出した後には、地元を取り仕切るヤクザとも衝突するようになった。初の経営である佐野では早速、地元のヤクザに出店料、いわゆるショバ代を要求された。『大法輪』のインタビューによれば、斎藤は「客が入るかどうかわからないので、払えません。どうしてもというなら、警察に行きましょう」と頑として断ったところ、ヤクザは「女が相手じゃ仕方ない」と帰って行った。女で良かったと実感した斎藤は、その後も再婚しないことを誓った。また自叙伝によれば、斎藤はヤクザを前に、着物をたくし上げ、陰部を露わにしてあぐらをかいて座り「俺はなぁ! 斬る度胸はないが、斬られる度胸はあんだ! やってみろ!」と啖呵を切ると、ヤクザは帰っていったという。 前述の通り、斎藤はこの佐野での初興業が一番の感動かもしれないというが、最も大変だったのも、この佐野だという。この一件を見かねた父が佐野の劇場に手伝いに来て、切符を売っている最中に倒れて死去した。ショバ代を取られたこともあり、月に60万を払わされたこともあるという。 自叙伝によれば、ほかにも銃を額に突きつけられたり、刃物を帯に突きつけられたこともあるという。しかし斎藤は、そうした脅しに怯むことはなく、「好きにしろ!」と、帯を解いて舞台に大の字になったこともあった。1973年9月には、ヤクザ者に一方的に惚れられても相手にしなかったところ、夜に寝ているところをそのヤクザ者に襲われ、肩を斬りつけられた。幸い布団で抵抗して助かったものの、当時はまだ舞台に立っていたため、裸になると傷跡を隠すのに苦労した。傷跡は90歳まで残っていたが、70歳代の頃には「斬られると痛いより熱いんですね」と、涼しい顔で語っていた。 ビートたけしの談によれば、斎藤が千葉の船橋市にストリップ劇場を新設し、ヤクザに営業を任せ、彼らが斎藤に金を収めないことがあった。斎藤が激怒してそれを指摘したところ、先方は「何だこのババア」と言い返したことから、斎藤は拳銃を3丁買い、自分のバックにいる若い者たちに「これでぶち殺してこい」と命令した。先方には事前に話が伝わっており、泣きながら金を渡したが、斎藤は「何だこの金。殺せって言っただろ」と怒りつけたという。 こうしてヤクザ者に怯まない斎藤の噂が広まったか、やがて極道の親分格が、街で斎藤に行き会うと頭を下げて挨拶するようになった。大勝館の新装開館後は、若い極道者が食事に訪れ、「お会いしたかったんです」と斎藤に握手を求める若者もいた。 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では、テレビで報じられる被害情報に、斎藤はいても立ってもいられなくなり、孫に救援物資を買占めさせた。役所などを通すと動きが遅く、現場では極道が最も早く動いていると考えたことで、極道たちに託すことにした。やがて極道の側近から、礼の電話があったという。
※この「ヤクザ・極道との関係」の解説は、「斎藤智恵子」の解説の一部です。
「ヤクザ・極道との関係」を含む「斎藤智恵子」の記事については、「斎藤智恵子」の概要を参照ください。
- ヤクザ・極道との関係のページへのリンク