モショエショエ
モショエショエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 08:42 UTC 版)
これらの開発の時代、モショエショエ王(モショウェショウェや誤ってモシェシュとも呼ばれる)はハイヴェルド南部のソト諸王国を支配した。彼は国際的に外交力と戦略に長けると評価されており、彼はディファカネへの避難民を統合国家に組み込む事が出来た。彼の優れた統率力のお蔭で彼の小さな国は危険と困難、即ちズールー人の覇権やオランダ人開拓者の内地への拡大、大英帝国の思惑を生き延びた。これらの困難は他の南アフリカ土着の王国を19世紀中に滅ぼした。1822年に、彼は首都をブータ・ブーテに設置した。ここは北に守りやすいドラケンスバーグ山脈を擁し、やがてレソト王国へと発展していった。首都は後にサバ・ボシウに移された。オランダ人開拓者集団の侵略に対処する為に、彼はフランスに国内での布教活動を認めた。パリ福音宣教教会から派遣された宣教師は、王に外交助言を行い近代兵器購入を手伝った。国の大臣として活動する傍ら、宣教師(初期はカサリスとアーボウッセト)はソト族の正書法制定やソト語教材の印刷で1837から1855年の間重要な役割を果たした。1878年に最初のソト語版聖書が作られた。
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