モグーリスタン・ハン国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
「ティムール」の記事における「モグーリスタン・ハン国との戦い」の解説
ティムールはモグーリスタン軍に追われるアミール・フサインと合流し、わずか60人で1,000人からなるヒヴァの領主の包囲を突破、この時にティムールは自らの槍で領主を討ち取った。1362年にティムールとフサインはモグーリスタン軍に敗れて捕虜とされ、62日間をメルブで過ごした。1363年、ティムールはスィースターンの領主との戦闘で負傷し、右手と右足に矢傷を負う。1364年に石橋の戦いでモグーリスタン軍に勝利、同年のキシュ近郊の戦いでイリヤース・ホージャに大勝し、モグーリスタン軍をマー・ワラー・アンナフルから放逐した。勝利したティムールとフサインはクリルタイを招集してチャガタイ家のカーブル・シャーを新たな西チャガタイ・ハン国のハンに擁立し、ティムールとフサイン2人の共同統治体制が成立した。 翌1365年春、トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したイリヤース・ホージャは雪辱を期してマー・ワラー・アンナフルに親征する。ティムールとフサインはチナズ・タシュケントの間でモグーリスタン軍を迎え撃った(泥沼の戦い)。ティムールとフサインは兵数でモグーリスタン軍に勝っていたにもかかわらず敗北し、2人はバルフ方面に逃亡した。敗戦の責任を巡ってティムールとフサインの関係は悪化するが、それでもまだ同盟関係は維持されていた。 他方、ティムール達に勝利したイリヤース・ホージャは守備兵がいないサマルカンドに向かって進軍を続けた。当時のサマルカンドは城壁と内城が再建されていなかったが、サマルカンド市民の中にはモンゴルからの解放を掲げる「サルバダール運動(英語版)」(英語: Sarbedaran movement)を行う一団が存在していた。サマルカンドに入城したイリヤース・ホージャの軍はサルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅し、さらに軍馬が疫病に罹って激減したためにマー・ワラー・アンナフルから退却した。イリヤース・ホージャは敗走中にドグラト部のカマルッディーンによって殺害され、カマルッディーンはモグーリスタンのハンを僭称した。 1366年春にイリヤース・ホージャが退却したことを知ったティムールとフサインはサマルカンドに戻り、一度はサルバダールたちの勝利を称え、彼らに面会を申し出る。歓待の後にティムール達は態度を一変させ、ティムールの取り成しによって助命された一人を除いてサルバダールを皆殺しにする。
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