メフォ手形償還問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 07:30 UTC 版)
1937年、ライヒスバンク総裁の任期を終えるシャハトの再任をヒトラーは望んだが、シャハトは留任の条件として1年後のメフォ手形発行の停止と、流通を120億ライヒスマルク分に押さえることを要求した。ヒトラーはこれに応じ、メフォ手形の発行は1938年3月末で停止された。しかしシャハトは1937年11月に経済相と全権委員を解任されている。 メフォ手形の発行は終了したが、納入者国庫証券という国庫割引証券が導入された。この証券は支払延長が認められなかったために、ライヒ政府は早めの償還を行わざるを得ず、メフォ手形の償還は一旦延期された。この頃には、メフォ手形はほとんどライヒスバンクと金割引銀行(ドイツ語版)の保有となり、ライヒスバンクと金割引銀行の手形保有の90%以上がメフォ手形で占められる事態となった。ライヒ財務省および関係当局は出来るだけメフォ手形が市中に出回るように努力したものの、効果はまったく無かった。1938年中には33億ライヒスマルクのメフォ手形の再割引がライヒスバンクに求められたものの、政府財政はこれに応じることは出来ず、27億ライヒスマルク分の紙幣が増刷される事態となっている。ライヒスバンクのメフォ手形を含む手形保有の増大は市中紙幣の増大を招き、インフレ圧力が強まった。また、メフォ手形及びライヒスバンク・ライヒ政府が発行した手形の債務は短期金融市場を圧迫し、さらにヒトラーの拡張政策による軍備費の増大もあり、1938年9月と12月にはライヒ政府が支払困難になるという事態に陥っている。1939年1月7日、シャハトらライヒスバンク首脳陣はさらなる債権発行はインフレーションを招く危険性を説く抗議文をヒトラーの元に送った。ヒトラーは「これは反乱だ」と述べ、シャハトと理事全員が解任された。
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