マリアナ、そしてフィリピンの攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 03:23 UTC 版)
「天山 (航空機)」の記事における「マリアナ、そしてフィリピンの攻防」の解説
第三艦隊(後に第一機動艦隊に編入)の各母艦航空隊には、昭和18年(1943年)12月頃からB6N2の配備が開始されている。翌昭和19年(1944年)3月にB6N2は一二型として制式採用されているものの、天山の生産が前線での消耗に追いつかないため、第一機動艦隊への配備数はなかなか増えず、結局第一機動艦隊の天山隊は定数(99機)に対して7割に満たない充足率で6月のマリアナ沖海戦を迎えている。この海戦では第六〇一航空隊の29機が昼間雷撃を行ったものの、F6Fヘルキャットの迎撃と対空砲火により出撃機の8割を超える24機が未帰還になるという大損害を受けている。 同年10月の台湾沖航空戦ではT攻撃部隊に編入された第六〇一航空隊攻撃第二六二飛行隊の23機が米機動部隊に対し夜間雷撃を行い、第二航空艦隊からは第六五三航空隊所属機などで編成された計56機が昼間雷撃を行ったものの、17機が出撃した第七〇一航空隊攻撃第二五二飛行隊が巡洋艦2隻の炎上を報じた一方、同隊は隊長機1機を残し未帰還となるなど損害は深刻であった。続くレイテ沖海戦においても、第三航空戦隊所属の瑞鶴以下の空母4隻に合計25機(定数の約5割)が搭載されているが、索敵や対潜哨戒、爆装した零戦で編成された攻撃隊の誘導が主な任務だった。
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