マニフェスト‐デスティニー【Manifest Destiny】
マニフェスト・デスティニー
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マニフェスト・デスティニー(英語: Manifest Destiny)とは、元々はアメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語であった。「明白なる使命」や「明白なる運命」、「明白な天命」、「明白なる大命」などと訳出される。「文明は、古代ギリシア・ローマからイギリスへ移動し、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸へと移り、さらに西に向かいアジア大陸へと地球を一周する」という、いわゆる「文明の西漸説」に基づいたアメリカ的文明観である[1]。
概要
1845年、ジョン・オサリヴァンが用いたのが初出である。この際は、合衆国のテキサス共和国の併合を支持する表現として用いられ、のちに合衆国の膨張を「文明化」・「天命」とみなしてインディアン虐殺、西部侵略を正当化する標語となっていった。19世紀末に「フロンティア」が事実上消滅すると、米西戦争や米墨戦争や米比戦争、ハワイ諸島併合など、合衆国の帝国主義的な領土拡大や、覇権主義を正当化するための言葉となった。
イギリスの帝国主義政治家ジョゼフ・チェンバレンも「マニフェスト・デスティニー」の語を使用し、「アングロ・サクソン民族は最も植民地経営に適した民族であり、アフリカに文明をもたらす義務を負っている」と語っている[2]。
出典
- ^ 戦後日米関係とアメリカの文化外交松田武、『国際問題』No. 578、2009年2月
- ^ 坂井(1967) p.173
参考文献
- 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年(昭和42年)。ASIN B000JA626W。
- ブルース・カミングス『アメリカ西漸史――«明白なる運命»とその未来』渡辺将人訳、東洋書林、2013年。
関連項目
- インディアン移住法 - インディアン移住
- ジャクソン流民主主義
- 西漸運動
- インディアン戦争
- フロンティア
- 汎アメリカ主義
- アメリカ例外主義
- アメリカ帝国
- ピルグリム・ファーザーズ - ピューリタン - 千年王国(アメリカは建国以来、バイブル・ベルトを抱えるなど先進国の中でも信仰心の篤い国でもある)
- クー・クラックス・クラン
マニフェストデスティニー
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「カール・フレドリックス」の記事における「マニフェストデスティニー」の解説
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マニフェスト・デスティニー
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「ジャクソン流民主主義」の記事における「マニフェスト・デスティニー」の解説
これはアメリカ人にはアメリカの西部を治めるべき使命があり、大西洋から太平洋までの北アメリカ全てを管轄内に入れるべきと言う信条であった。しかし、自由の土地を信奉するジャクソン支持者、特にマーティン・ヴァン・ビューレンは、合衆国内に奴隷制が拡大することを避けるために拡張を制限すべきと主張した。
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マニフェスト・デスティニー
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「ジョン・オサリヴァン」の記事における「マニフェスト・デスティニー」の解説
「デモクラティック・レビュー」1845年7月・8月号で、オサリヴァンは「併合」と題する随筆を掲載し、テキサス共和国をアメリカ合衆国に加盟させることを求めた。アメリカ合衆国上院では奴隷州の数が増えることと、メキシコとの戦争が関心事になっていたので、テキサス併合は長く議論の対象になっていた。1845年初期に議会は併合を票決したが、テキサスはこれをまだ受け入れておらず。反対者は依然として併合の阻止を期待していた。オサリヴァンの随筆では、「今はテキサス併合に対する反対を止める時である」と呼びかけていた。「毎年100万人単位で人口が増えているこの国の自由な発展のために、神の摂理で割り当てられたこの大陸全体に広がるという明白な使命(マニフェスト・デスティニー)」と書いて、アメリカ合衆国は北アメリカ大陸全体に広がるという天からの負託を受けていると論じた。テキサスはそれから間もなく併合されたが、オサリヴァンが「マニフェスト・デスティニー」という言葉を初めて使ったときは、それほどの注目を集めなかった。 オサリヴァンが2度目にこの言葉を使ったときは大きな影響を与えた。「ニューヨーク・モーニング・ニューズ」1845年12月27日版に掲載されたコラムで、イギリスとの間に続いていたオレゴン・カントリーの境界に関する論争について触れた。 (オレゴン・カントリーの領有は)神の摂理で偉大な自由の実験の発展のために我々に与えられ、連邦の自治政府が我々に信託したこの大陸全体に広がり、所有するために、我々の明白な使命の権利によるものである。 すなわち、オサリヴァンは神(摂理)がアメリカ合衆国に、北アメリカ大陸全体で共和制民主主義(偉大な自由の実験)を広げる使命を与えたと考えた。イギリスは民主主義を広める目的でオレゴンを使うのではないので、この領土に対するイギリスの領有権主張は尊重されるべきでないと考えた。明白な使命は道徳的な考え(高い法)であり、国際法や調停を含めその他の考慮事項を超越すべきと信じた。この使命の中にカナダ東部は含めないことを明らかにし、1840年代に二国間の緊張を緩和すべく努めた。 オサリヴァンの当初抱いた明白な使命の考え方では、力による領土拡大を要求していなかった。アメリカ式民主主義の拡大は避けられないことであり、白人(すなわちアングロサクソン人)が新しい領域に移民すれば、軍事的行動無しにそれが起こるものだと信じた。1846年に米墨戦争に進むことは認めなかったが、その結果は両国にとっての恩恵になると考えるようになった。 オサリヴァンの言葉は1840年代に特に人民に人気を得るようになった感情に標語を与えたが、この考え方自体は新しいものではなかった。オサリヴァン自身が既にこのような考えを表明しており、特に1839年には「将来性のある偉大な国」という題の随筆を書いていた。マニフェスト・デスティニー概念を創出した者ではないが、最初期に提唱した者の一人だった。 オサリヴァンは当初この新しいキャッチフレーズを作ったことに気づいていなかった。ジェームズ・ポーク政権の野党であるホイッグ党がそれを批判した後で、人気が出るようになった。1846年1月3日、アメリカ合衆国下院議員ロバート・ウィンスロップが議会で「拡張へのマニフェスト・デスティニーの権利は普遍的なヤンキーの国を除いて、どの国にも存在するとは認められない」と言って揶揄した。この批判にも拘わらず、民主党はこの言葉を取り込んだ。素早く取り込まれたので、オサリヴァンが最初に発言したことが忘れられた。歴史家ジュリアス・プラットが1927年にこの言葉はオサリヴァンに始まったと結論付けて、初めてその事実が固められた。
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