ポルトガル国王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 08:25 UTC 版)
「ジョアン1世 (ポルトガル王)」の記事における「ポルトガル国王」の解説
1385年5月、コインブラで開催されたコルテス(身分制議会)において、カスティーリャ軍を撃退した功績を評価されて、ジョアン1世はポルトガル王に選出された。同年8月、フアン1世が再度侵攻してきたが、アルジュバロータの戦いでこれを大いに破った。ベアトリス女王は退位し、2年余り続いたカスティーリャとの戦い、およびポルトガル内戦は終結した。 さらにカスティーリャ王国の背後に同盟国フランスがいるのに対抗して、1386年にイングランドとウィンザー条約を結んで同盟した。1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結ばれたが、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれた。 1387年2月2日に、イングランドとの同盟の証としてジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパとポルトで結婚した。2人の間に生まれた王子たちはいずれも優秀であった。 1411年、カスティーリャ王国と「和睦」を結んで側背の脅威を排除すると、積極的な勢力拡大に乗り出した。1415年、エンリケ航海王子と共にモロッコに進出し、同地に勢力を拡大した。当初はナスル朝が支配するグラナダに進出する計画を持ったが、イベリア半島内で勢力拡大を行うとカスティーリャを刺激する、という懸念から、アフリカ大陸方面にその伸長先を設定した。 その後も、積極的な勢力拡大に努めてポルトガルの全盛期の基礎を築き上げた。またこの年から長男のドゥアルテを共同統治者とする。 1433年、77歳で崩御した。
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