ボートでの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 09:15 UTC 版)
「1798年5月30日の海戦」の記事における「ボートでの攻撃」の解説
この日一杯、フランスは敵艦の砲火を浴びせられた2隻の艦の位置の兵力を増員した。周辺地域からの兵が岸に集まり、イギリス軍がこの2隻へボートで攻撃するのを阻止した。兵たちの中には、ディーヴ川に避難していた、ムスケインの上陸用舟艇部隊から来たものもいた。この部隊はトライアルからその正体を見破られており、そのトライアルは、コンフィアントがどのような状態かを突き止めるため、少しの間この艦に近づいたが、コンフィアントの稼働中の大砲から砲火を浴びせられた。岸の兵からの射撃に守られて、コンフィアントから、負傷者も含めたすべての乗員が撤退した。結局フランス軍は、夜になって難破したコンフィアントを放棄した。ヴェズーヴはもう少し状態がよく、防御もしっかりしていた、強固なフランス軍がいたおかげで、ラフォリーは、もう少し周囲の状況がイギリスにとって有利になるまで、座礁した艦への行動を遅らせることにした。 5月31日の朝10時、ラフォリーは戦隊からボートを出して海岸に向かわせ、座礁したコンフィアントを攻撃させた。12時45分にはコンフィアントに艦を横付けし、ジョージ・アクロムとウィリアム・J・サイモンズの2人の海尉に率いられた乗員たちが乗り込み、艦に誰も生存者がおらず、甲板上におびただしいフランス人乗員の遺体があるのを発見した。フランス国旗を下ろして書類を片付けた乗り込み部隊は、撤退前に艦首と艦尾に火を放った。これに対して、浜辺より高い位置にいるフランス陸軍部隊と、岸に沿って動き回っていた軽騎兵隊がマスケット規律正しく銃を放ったが、敵に対しての効果はなかった。火はすばやくコンフェラントを焼き尽くし、イギリスの乗り込み部隊は一人の死傷者も出さずにその場を離れた。 イギリス戦隊のコンフィアントへの攻撃がやんだため、ヴェズーヴの乗員はもう一度艦を航行させることに成功し、ヴェジューヴは間もなくサルネルの砲台に守られた海域に投錨した。この砲台には新たな大砲が、ムスケイン艦長指揮下の200人の兵の手で追加されていた。サルネルもイギリス軍の封鎖で固められており、ここにつながれた舟艇から抜き取ってきたのだった。コンフィアントが焼かれた時点で、ディーヴ川河口は厳重な防御が築かれ、6月1日にはリチャード・ストラカン(英語版)艦長指揮下の38門フリゲート艦ダイアモンドDiamond(en)まで到着していたが、数にまさるフランス軍に釣り合う兵力の点で十分ではなかった。最終的にラフォリーはサルネルの封鎖から撤退し、彼が不在の間にヴェズーヴが何とか出帆して、無事にル・アーヴルに到着した。
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