ベルリン大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:36 UTC 版)
1931年の9月、白井はベルリン大学に移る。ベルリン大学では、シュプランガーとデゾワーに師事する。一方、ベルリンでは市川清敏とともに、鈴木東民の邦人向けの左翼新聞『伯林週報』を引き継いでその編集に加わるなど、左翼運動にも身を投じた。また、当時中央公論社のソヴィエト特派員として活動していた香川重信とベルリンで出会い意気投合し、ソ連共産党入党を勧誘される。翌年6月、前述の義兄近藤の個展を訪れ高く評価したアンドレ・マルローが文芸雑誌『新フランス評論(N.R.F)』社のギャラリーにおいて近藤の個展を開き、白井は手伝いのために再度パリへ赴いた。この時、同じく手伝いをしていたのちの美術評論家今泉篤男や、当時パリに滞在していた小松清、作家の林芙美子らに出会う。林はこの当時のことを『滞欧記』や『巴里の日記』などで発表した。『滞欧記』には「建築をする人」、『巴里の日記』には「哲学と建築を勉強」している、と記された彼女の恋の相手「S」は白井のことであるといわれている。この年の9月以降に香川重信とともにモスクワを訪れ、その後シベリアを経由して1933年の初めに日本に帰国する。
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