ブルガリアからウィーンへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/15 15:01 UTC 版)
「ドン・コサック合唱団セルゲイ・ジャーロフ」の記事における「ブルガリアからウィーンへ」の解説
ブルガリアの首都、ソフィアでは防衛省によってバラックが与えられ、彼らのテント暮らしは終わった。即興的に執り行われることの多かったコンサートで得られる利益は約2ドル(当時の約8ドイツマルク)であった。それでも、1923年6月23日のソフィアのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂でのデビューは彼らの士気を高めた。その後には、フランスのモンタルジにある工場からのオファーが続いた。工場はオーナーの妻がロシア人で、すでに吹奏楽団がいたことから、合唱団を加えることを検討していたのだ。しかし不運なことに、資金の不足から合唱団はウィーンに取り残されることとなった。助け舟をだしたのは合唱団に興味を持った国際連盟の代表者だった。彼は合唱団とコンサート・エイジェンシーのディレクターを引き合わせ、オーディションの機会を作った。合唱団はそこで予想を上回るパフォーマンスをみせ、そして歴史的な決断が下された。1923年7月4日のウィーン、ホーフブルク宮殿でのコンサートの申し出がここで成されたのだが、その決断によってその他のことは全て問題ではなくなった。大成功を収めることとなったこのオーストリア首都でのコンサートの後、ディレクターは合唱団が一度と言わず、さらに何千回ものコンサートを行うことになるだろうと見込んだのだ。実際、彼らは最終的に一万回を超えるパフォーマンスをすることとなった。1926年、合唱団はオーストリアツアーを行い、リード・シンガーをつとめていたサーヴァ・カマラーリはオーストリアに移り住むことを決め、合唱団を離れた。1930年、彼らは初めてアメリカに渡り、1936年には宣誓式を行いアメリカ市民権を得た。
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