ブルガリアとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 00:33 UTC 版)
「ステファン・ネマニッチ」の記事における「ブルガリアとの対立」の解説
ネマニッチとヴカンの講和が成立した後、ブルガリアでは皇帝カロヤンの死後に帝位を巡る争いが起きていたが、カロヤンの甥ボリルが先帝の子アレクサンダルとイヴァン、ボリルの甥(もしくは兄弟)ストレス(英語版)を追放して帝位に就いており、ストレスはセルビアの宮廷に亡命した。ストレスを厚遇するネマニッチに対してボリルは財貨を贈るとともにストレスの引き渡しを要求したが、ネマニッチは要求を拒絶した。 さらにネマニッチはカロヤンの時代にブルガリアの支配下に入ったベオグラード、ブラニチェヴォ、ニシュ、プリズレンの引き渡しを要求し、ボリルは1208年のプロヴディフの戦い(英語版)でラテン帝国に敗北を喫していたためストレスと彼の後援者であるセルビアに対して反撃に出られなかった。ネマニッチはストレスの信頼を得続けるために、彼を実の兄弟と同様に扱った。
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