ブリエンヌの弾圧と抵抗運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:10 UTC 版)
「フランス革命」の記事における「ブリエンヌの弾圧と抵抗運動」の解説
1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。印紙税は貴族よりブルジョワジーに対して負担が重い税だった。パリ高等法院は印紙税の登録に反対した。ブリエンヌは国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。このときオルレアン公が、公債発行を不法だとして抗議し、国王と対立し、オルレアン公はパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした。王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した。この措置は全国的な動揺をひきおこし、オルレアン公に代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった。全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。1788年8月の初めにブリエンヌは「国庫は空になるだろう」という報告を受けた。8月16日にブリエンヌは、現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払うと命令した。この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした。ブリエンヌはさらにケース・デスコント (fr:Caisse d'escompte) 紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。国庫には50万リーブルしか残らず、ブリエンヌは辞任させられた。国王は平民の銀行家ネッケルを呼び戻して財務総督にするしかなかった。パリ高等法院は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した。 これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった。
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