フネと「フランス通り」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)
「アンリ・フネ」の記事における「フネと「フランス通り」」の解説
1945年4月27日早朝、「ノルトラント」師団「ダンマルク」連隊付救護所で夜を過ごしたフネのもとに1人のドイツ国防軍将校が現れ、「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将がオペラハウス内に設けた師団司令部において作戦会議を催すことを伝えた。フネはこのドイツ人将校の車に乗ってベルリン中央市街へ向かったが、砲爆撃によって寸断された道路において自動車はほとんど役に立たなかった。 車を降りて残りの道を徒歩で進む間、フネはこのドイツ人将校から様々な話を聞かされた。フネ(この時25歳)の2倍の年齢を持ち、ベルリンで生まれ育ったこのドイツ人将校にとっては、ベルリンが廃墟と化したこの光景は「世界の終わり」だという。そして、自分は歳をとりすぎているため再び平和な日々を見ることは叶わないだろうが、若い者たちはそれを見ることが可能という。 ドイツ人将校の話は周囲に降り注いだ赤軍の砲弾によって遮られ、フネたちは仮設の防空壕に避難した。砲弾の爆発によって地面が揺れ、壁が崩れる中、フネは「荒れ果てた広場や廃墟に降り注ぐ、これら無駄な砲弾の半分でも我々にあれば……」と何度も思った。 その後、フネはオペラハウス内で行われている「ノルトラント」師団作戦会議に加わった。そして、前日の「ノルトラント」師団とフランス人義勇兵の奮戦によって上機嫌な様子のクルケンベルクから、フネのフランスSS突撃大隊は1日の休養を与えられた(ただし、休養後は戦車破壊(駆逐)班として扱われることになっていた)。作戦会議終了後、「ノルトラント」師団の将兵は正午に予定された反撃の準備をするためにそれぞれの持ち場へ戻ったが、この日の朝にソビエト赤軍の砲撃がオペラハウスとその周辺に対して加えられたため、「ノルトラント」師団司令部はオペラハウスからの移動を余儀なくされた。 その途中、「ノルトラント」師団所属軍医の1人ツィンマーマン博士 (Dr. Zimmermann) はフネに対し、我々が今いるこの場所は「フランス通り(フランツェージッシェ通り)」(Französische Straße) であると教えた。「17世紀に宗教的な迫害を逃れてプロシアに流入し、この首都の建設に加わったユグノー教徒を記念する」 フランス通りに立ったフネは、「我々は彼らが建設を助けたこの首都の廃墟で戦っているのだ」と思った。さらにツィンマーマンは、「これからは、君の名誉の中にこの道も残ることになるだろう」と付け加えた。
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