フィリピンへの派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 07:23 UTC 版)
1943年(昭和18年)、太平洋戦争の戦線拡大により日本海軍が占領地の治安部隊として編成した軍属部隊である海軍巡査隊500人の総指揮官を拝命する。なお、フィリピンに派遣された海軍巡査隊は総勢2000名であり、廣枝が引率したのはそのうちの一次派遣隊に相当する。同年12月8日に高雄港を特設運送艦「武昌丸」で発った。途中バタン島沖で護衛の駆逐艦が敵潜水艦の雷撃により轟沈したが、廣枝は台湾人を中心とする部下たちの動揺を努めて抑え、2日後にマニラ湾南部のカヴィテへ無事入港した。現地での訓練ののち、廣枝は本隊を率いて捕虜の監視等の任務についた。このときも廣枝は「捕虜といっても同じ人間である。我々は保護監視のために来ているのだから無謀なことは決してしないように気を付けてやってくれ」と部下を諭すなど、人道主義に徹していたという。 戦局の悪化により、連合軍のルソン島上陸が時間の問題となると、マニラ海軍防衛隊が編成され、海軍巡査隊もその指揮下に入る。1945年(昭和20年)にマニラの戦いが始まると、廣枝は重傷を負った部下たちを抱き寄せ、大声で名前を呼び、目には涙をためながら励まし続け、迫撃砲弾や弾丸が降り続く中、危険を顧みず自ら重傷者達を病院へ護送するなどの率先垂範を行った。
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