ビートルズとのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:40 UTC 版)
「イメルダ・マルコス」の記事における「ビートルズとのかかわり」の解説
1966年、コンサートツアーで入国中のビートルズを招いてのイメルダ主催の朝食レセプションがマラカニアン宮殿で催されることとなった。これは日本公演中に既に打診していたが、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインはメンバーに知らせずに断った。フィリピンの現地プロモーターもまた、断られたことをイメルダに伝えなかった。開催当日の7月4日、現地プロモーターは開始寸前まで交渉したがエプスタインは要請に応じることはなく、ビートルズの面々はレセプションに姿を現さなかった。 翌日の新聞では「ビートルズ、大統領一家を侮辱!」と大々的に報じられ、テレビではイメルダの「ビートルズが約束を破ったために会えるのを楽しみにしていた子供たちが可哀想だ。裏切られた」と憤慨する様子が放映されていた。これにより、フィリピン国内にビートルズに対する反感が瞬く間に拡大し、帰国の際にビートルズは空港で民衆から殴る・蹴るの暴行を受け、帰りの飛行機にはなかなか離陸許可が下りず、結局コンサートの収入すべてがその場で課税対象とされてようやく許可が下りたという顛末がある。 この件に関してジョン・レノンはイギリスに帰国後のインタビューで「あんなイカれた国には2度と行くもんか」と発言した。また、ポール・マッカートニーは、マルコス大統領失脚後に「隠された真相が明らかになった」と自分達の無実を証明できたことに安堵の意を示すとともに、「ジョージ・ハリスンは次にフィリピンへ行く時は、原爆を落としに行く時だと怒りを露わにしていた」と当時を振り返った。当時の日本の新聞では暴行の新聞記事の写真のキャプションには同行カメラマンのロバート・ストラッガーがジョンとされ、ジョンがジョージ・ハリスンとされている。
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