ヒリガー・ボルン、三十年戦争、パーダーボルンの飛び地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/02 16:08 UTC 版)
「リュクデ」の記事における「ヒリガー・ボルン、三十年戦争、パーダーボルンの飛び地」の解説
16世紀半ばにヒリガー・ボルンの物語が広まった。この水が身体の障害を治療するというのである。ドイツのみならず、ヨーロッパ全土から人々が群れをなしてリュクデ周辺に、やがては関係のないピルモントにまで押し寄せた。リュクデとその周辺の村では、この群衆を受け容れることができず、数千人が森や空き地で寝泊まりした。 1583年にリュクデの住民は宗教改革を受け容れた。三十年戦争中は入れ替わる支配者に信仰を強要されたが、再びルター派の信仰に戻り、1624年には激しい対立の末カトリックの信仰に戻った。戦争が終わった時、都市の 1/3 が破壊され、住民たちは完全に貧困状態にあえいでいた。 1668年3月14日、司教領主フェルディナント・フォン・フュルステンベルクとヴァルデック伯は、174年以上紛争が続いた土地の所有をピルモント伯領とすることで合意した。伯はピルモントの泉とそれに隣接する村とを建設した。ヴァルデック家で最も有名な領主がゲオルク・フリードリヒ・ツー・ヴァルデック(ドイツ語版、英語版)(1620年 - 1692年)である。彼は湧水をふさぎ、後に有名になるリンデンアレー(セイヨウボダイジュの並木道)を整備し、バート・ピルモントを建設した。この後もパーダーボルン司教領主はリュクデの領有を続けた。住民に福音主義信仰は浸透せず、信仰に関してカトリック勢力の飛び地となった。七年戦争(1756年 – 1763年)でリュクデは、軍勢の宿営や進軍により甚大な被害を受け、周縁部は経済的廃墟と化した
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