ヒラーファト運動の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 17:42 UTC 版)
「ヒラーファト運動」の記事における「ヒラーファト運動の終焉」の解説
委員会はイギリス植民地政府と交渉を重ね、活動を継続していた。しかし、インド・ムスリムたちは決して一枚岩ではなく、国民会議派、全インド・ムスリム連盟、ヒラーファット委員会の三つ巴状態になり、ヒラーファット運動は弱体化した。同運動にとどめを刺したのはアタテュルクによるカリフ制の廃止である。加えて、彼はインドからの支援を求めていなかった。委員会の指導者たちも政治路線の対立により分裂。サイイド・アタウッラー・シャー・ブハーリーは、チョウドリー・アフザル・ハク (Chaudhry Afzal Haq) と協力して、宗教政党マジュリセ・アフラーレ・イスラーム(Majlis-e Ahrar-e Islam)を創設。アブル・カラーム・アーザード、ムクタール・アフマド・アンサーリー、ハキーム・アジュマド・ハーンはガンディーとインド国民会議派を支持。シャウカット・アリーとムハンマド・アリー・ジョーハル(アリー兄弟)はムスリム連盟に合流。アリー兄弟はムスリム連盟の大衆化とそれに続くパキスタン運動に大きな役割を果たした。カリフ制が廃止されたのち、シャウカット・アリーは1931年にエルサレムで世界イスラーム会議(World Islamic Congress)を主催し、世界各地のムスリム指導者たちと汎イスラーム主義的な連携を模索していた。
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