バリン郷事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:31 UTC 版)
「東トルキスタン独立運動」の記事における「バリン郷事件」の解説
天安門事件の翌年の1990年4月5日から6日にかけて、カシュガルから30kmほどに位置する新疆西部クズルス・キルギス自治州のアクト県バリン郷においてバリン郷事件が発生した。 4月5日未明、郷政府を襲撃したウイグル人住民230名余りが、コーランを唱えデモを行った。「聖戦による漢人駆逐」というスローガンも出された。 説得に応じなかったデモ隊に対して郷政府所属中国人民武装警察部隊が出動、銃撃を行い、銃撃戦となった。 デモを指導したツェディン・ユスプら15名が射殺された。国際人権救援機構(アムネスティ・インターナショナル)は死者50名、6000名が「反革命罪」で訴追されたと報告している。 デモの中心になったのはキルギス人で、「われわれはトルキスタン人だ」と主張し、入植した漢民族の追放、新疆省での核実験や産児制限への反対、自治の拡大が求められた。 前年6月の天安門事件を踏まえて中国政府および現地郷政府当局は「反革命武装暴乱」「東トルキスタン共和国の樹立を目指す分離主義による暴動」と認定しているが、毛里和子は中国政府らによる認定について「数頭の馬、斧、少々の手榴弾で“武装”したたった200人余りの“暴徒”が共産党の支配を覆し新疆を独立させることができるは、誰が考えても現実的ではない」と指摘している。バリン郷事件以降、自治区党顧問委員会主任の王恩茂は「新疆は古代から中国の領土だった」と各地で演説した。王恩茂は1949年8月に新疆に入った中国人民解放軍司令官で、新疆生産建設兵団を設立した人物である。
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