バタヴィア市の成立とは? わかりやすく解説

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バタヴィア市の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:38 UTC 版)

ジャカルタ」の記事における「バタヴィア市の成立」の解説

16世紀末に、この海域でのポルトガル香辛料独占対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワ王族内紛介入し、その一方軍事援助を行う見返りとして、ジャヤカルタを手に入れた1619年オランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタに要塞建設し、この地をオランダ先住民バタウィにちなんで、バタヴィア改称したその後オランダ東インド会社基地として、さらに後にはオランダ領東インド国家中心都市として発展していくことになった1629年には東隣の中部ジャワ統べる大国であったマタラム王国スルタン・アグン侵攻して来たものの、クーン築いた城壁によって撃退成功し、これがジャカルタ拡大契機となった。チリウン川は直線流路改修されそれまでチリウン川東岸に限られていた城壁拡張され西岸にも達し、川を市街中心として両岸市街地広がるようになったまた、街の周囲には運河兼用掘割張り巡らされ、石やレンガ造りオランダ風建物が立ち並び当初東洋真珠」と呼ばれる美し町並みとなったが、この町並みジャワ気候とは必ずしもあっていなかった上に、城壁内の風通し悪かったことや周囲水質悪化によって死亡率が非常に高くなり、やがて「東洋墓場」とも呼ばれるようになったまた、このころにはジャワ人アンボン人、スンダ人など、オランダ領東インド各地からバタヴィアへやってきた人々混血進み、ベタウィ人(英語版)と呼ばれる新し民族集団誕生した

※この「バタヴィア市の成立」の解説は、「ジャカルタ」の解説の一部です。
「バタヴィア市の成立」を含む「ジャカルタ」の記事については、「ジャカルタ」の概要を参照ください。

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