バタヴィア商務総監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:13 UTC 版)
「フランソワ・カロン」の記事における「バタヴィア商務総監」の解説
バタヴィアに戻ったカロンは、1647年3月9日に植民地総督(Gouverneurs-generaal)の次席にあたる商務総監(Directeur-generaal)の地位についた。1649年、ブレスケンス号事件解決の謝礼を述べるため、日本に特使を派遣することが決まった。このとき、カロンは特使一行に砲術士官のユリアン・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを加えた。スヘーデルは臼砲の射撃を披露し、その指導は軍学者の北条氏長によって「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめられた。シャムベルゲルは多くの日本人を治療し、後にカスパル流外科術の祖と見なされるようになった。両人は日本人から非常に歓迎されたが、これは日本人が何を好むかを熟知していたカロンの功績と言える。 1651年、私貿易を行ったとの訴訟を受け、オランダに召喚されたが、勝訴して名誉を保って会社を退職することが出来た。
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