ハンニバル・マゴの副官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:08 UTC 版)
「ヒミルコ2世」の記事における「ハンニバル・マゴの副官」の解説
詳細は「アクラガス包囲戦」を参照 シュラクサイを追放されたヘルモクラテスは、カルタゴ領モティアやパノルムス(現在のパレルモ)に襲撃を繰り返していたが、これに反撃するため、紀元前406年にカルタゴ元老院はハンニバル・マゴにシケリアへの再遠征を依頼した。ハンニバルは高齢を理由に一度は辞退したものの、元老院がヒミルコを副官に任じると、これを受諾した。ハンニバルは60,000の兵と1,000隻の輸送船を、120隻の三段櫂船に護衛させてシケリアへ向かった。他方、アクラガスとシュラクサイは連合し、南イタリアからも兵を集めてカルタゴ軍に備えた。 紀元前406年春、ハンニバルはシケリアで最も裕福な都市であるアクラガスの東西に野営地を設営し、挟撃態勢をとった。一方でカルタゴ艦隊はモティアを基地とした。陸軍主力はアクラガスの西側に野営し、イベリアとカンパニア傭兵が東側に野営した。アクラガスには重装歩兵10,000を有し、多少の騎兵とスパルタの将軍デキシップスが指揮する1,500の傭兵部隊もいた。 ハンニバルはまずカルタゴ軍主野営地近くの城門に対し、2基の攻城塔を用いて攻撃をかけたが、これは撃退された。続いて、複数の場所から攻めるために、攻城傾斜路の建設を始めた。しかしながら、カルタゴ軍にペストが蔓延し、多くの兵だけでなくハンニバル自身も病死してしまった。このため、副官のヒミルコがカルタゴ軍の司令官に選ばれた。ハンニバルは攻城傾斜路建設のために墓石を破壊して材料とするよう命じていたため、多くのカルタゴ兵がこのペストは神の怒りであると信じた。
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