ハイラム・ビンガム3世の遺跡調査記録
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「マチュ・ピチュ」の記事における「ハイラム・ビンガム3世の遺跡調査記録」の解説
アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世は、1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を調査して世界に発表した。 ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。 マチュ・ピチュとはビンガムがその名前で世界に紹介しただけで、間違えて広まってしまったという説がある。ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日に遺跡の存在を確認しており、ビンガムがまだペルーに到着していなかった1904年の地図帳には、ワイナピチュという地名でインカの遺跡があることがすでに記載されていた。1912年にビンガムが地元の地主の関係者から遺跡がワイナピチュと呼ばれていることを伝えられていたという話もある。16世紀後半の古文書にワイナピチュと呼んでいた遺跡を地元の先住民が再開発しようとしていたという記録も残っている。ビンガムは、発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけである。 ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。
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