ハイスピード化時代のヤマハの試行錯誤
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「ヤマハ・XTZ750スーパーテネレ」の記事における「ハイスピード化時代のヤマハの試行錯誤」の解説
しかし、単気筒マシンが優勝できたのはここまでで、1983年からは、BMWが800ccの水平対向二気筒エンジンのG/Sシリーズで三連覇を果たし、1986年からはホンダが後にアフリカツインのベースとなるV型2気筒エンジンを搭載したNXR750で四連覇を果たすなど、パリダカは大排気量二気筒マシンによるハイスピード化が進んでいた。 ヤマハは適切なツインエンジンを持たなかったため、相変わらずの単気筒で出場。1985年の第7回大会には、市販車先行開発グループによる初めての準ワークスマシン、XT600テネレ(0U26を投入。車名は「600」ではあるが、排気量は660ccまで拡大されている。ライダーは、ソノート・ヤマハの社長でもあるジャン=クロード・オリビエで、リザルトは2位を記録した。 1986年には排気量を665ccに拡大したXT600テネレ(同じく0U26)と並んで、FZ750の四気筒エンジンを搭載したFZT750テネレ(同じく0U26)を投入。XT600テネレのシャルボニエが4位、FZT750テネレのオリビエは12位となった。四気筒マシンは翌1987年の第9回大会では912ccに排気量を拡大するが、セルジュ・バクーが7位、オリビエが11位に終わる。四気筒マシンは、砂漠でのトラクションが不足し、また重量増大の懸念があることからここで終わる。単気筒マシンは、ムースタイヤが時速160kmで溶け始めることから、それ以上のスピードは必要ないということと、砂漠でのトラクションが非常に良好なことから、開発は継続された。
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