ノーザンテースト、サンデーサイレンスの導入
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「吉田善哉」の記事における「ノーザンテースト、サンデーサイレンスの導入」の解説
世紀の大種牡馬ノーザンダンサーの子供が欧米で走り始めた1972年、善哉は他の生産者に先駆けてノーザンダンサー産駒を手に入れるべく、米サラトガセールに照哉を派遣した。善哉から「ノーザンダンサー産駒の一番良い馬」という事だけを指定され、相馬を任された照哉は10万ドル(当時のレートで3080万円)で小柄な栗毛馬を購入し、ノーザンテーストと名付けられた同馬は善哉の名義でフランスで走り、G1フォレ賞に勝利するなど活躍した。引退後、ノーザンテーストは種牡馬として日本で供用され、年度代表馬のアンバーシャダイ、ダイナガリバーなどを輩出し、1982年から1992年まで11年連続で中央競馬のリーディングサイアーとなるなど、旧来の日本競馬の血統を塗り替えた。 さらに1990年、善哉は「最後の大仕事」として、1989年の全米年度代表馬サンデーサイレンスを約16億5000万円で種牡馬として日本に導入した。この交渉にあたっては、サンデーサイレンスの血統背景が北米の主流ではなかったという事情のほかにも、サンデーサイレンスの所有者であったアーサー・ハンコックがフォンテンブローファーム時代の照哉と親交があった人物であったことが有効に働き、米生産界との繋がりを構築したいという目的でフォンテンブローファームを開いた善哉の布石が実を結んだものとなっていた。サンデーサイレンス産駒は1994年にデビューすると、初年度産駒からフジキセキ、ジェニュイン、タヤスツヨシ、マーベラスサンデー、ダンスパートナーといったG1馬を送り出した。その後もノーザンテーストを遙かに上回る勢いで産駒が活躍し、日本競馬を席巻。サンデーサイレンスは日本競馬史上最高の革命的種牡馬となった。 しかし善哉自身はその活躍を見ることなく、1993年8月13日、72歳で死去した。その死後、社台グループは照哉、勝己、晴哉の三人の息子によって再編され、今日世界最大規模の競走馬生産育成グループとなっている。
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