ネルー政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 00:54 UTC 版)
「ジャワハルラール・ネルー」の記事における「ネルー政権」の解説
第1次ネルー内閣は首相・外相であるネルーのほか、副首相・内相には藩王国併合に功のあったヒンドゥー主義寄りのヴァッラブバーイー・パテール(サルダール・パテール)、法相には不可触民出身の反カースト運動指導者であるビームラーオ・アンベードカルを任命するなど、左右両派から広く人材を集めた構成となっていた。また、閣内多数派は議会内で圧倒的多数を占める国民会議派であったが、指定カースト連盟のアンベードカルやヒンドゥー・マハーサバーのシャヤマ・プラサド・ムカジーなどの野党政治家も入閣していた。 ネルー政権がまずやらなければならなかったことは、独立時の混乱とそれによって発生した大量の難民への対応だった。その混乱の中でインドの精神的指導者であったマハトマ・ガンディーが独立後まもなく、1948年1月30日に暗殺されると、国民会議派はネルーと副首相であるパテールの二人の指導者による二頭体制となった。社会主義的で政教分離を旨とするネルーと、ヒンドゥー教寄りでパキスタンやマイノリティに強硬な態度を取り資本主義寄りであるパテールはしばしば対立したが、1950年にパテールが死去すると会議派内にネルーに対抗できる政治家はいなくなり、ネルーは党内の指導権を確立した。
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