ナスフにおける平和と戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:35 UTC 版)
イスラーム教とはどういうものかについて考えた場合、まず、イスラーム教過激派の存在が頭に浮かんでくる人は多いようである。しかし一方で、イスラーム教とは平和の宗教だという主張をする人もいるようである。イスラーム教がこうした教えの幅を現実のものとして維持している背景には、ナスフ等のツールがあるようである。戦闘に関する規定は、メッカ時代初期の戦闘禁止から、防衛戦のみ、そして戦闘一般に拡大した。メッカ時代初期の戦闘禁止においては、防衛のための戦いも認められてはいなかった。神の手に運命をゆだねて耐え忍ぶことが推奨(2章109節)されていた。 それに関連したこととして、106章1には、「クライシュ族をして無事安泰に」という句がある。これはごく初期の啓示であるとされている。強情な偶像崇拝者であっても、無事安泰を祈れ、すなわち敵の平和を祈り行動せよということが言われている。この、①「敵の平和を祈り行動せよ」という句は、メディナ期での、戦闘一般を推奨した(剣の句と呼ばれているところの、9章5)②「多神教徒は見つけ次第殺せ」という句と、①と②が矛盾していることがわかる。結果的に見て、イスラーム教の信者は、①の啓示で②の啓示をナスフするか、②の啓示で①の啓示をナスフするかによって、自分の生き方が大きくシフトしてしまうという立場に置かれているといえる。こうしたことから、平和と戦争の間を揺れ動いているイスラーム教徒の相反する見方が、成立しているようだ。イスラーム教では、信条や教義が、キリスト教ほど重要ではない。思想の正しさよりも、行動(六信五行等)の正しさを重視している。五行さえ守っていれば誰もがムスリムであるとされる、とする見解がある 。 イスラーム教過激派の原理主義者の中には、彼らの戦闘的イデオロギーがムハンマドの生涯に基づいていると主張する者がいる。また、イスラーム法の指導者は、スーフィズム等の、ムスハフの平和的な内的解釈をする者を異端者として断罪するのに対して、イスラーム教過激派をイスラームとして容認している現状もあるとされる 。
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