ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1940-1941
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/26 10:40 UTC 版)
![]() |
|
シーズン | 1940-1941 |
---|---|
優勝 | SKラピート (1回目) |
試合数 | 56 |
ゴール数 | 238 (1試合平均4.25) |
得点王 | ![]() (15点) |
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1940-1941 は、ドイツ国で開催された第34回目のサッカー全国大会である。SKラピートが優勝し、1回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2][3]。
概要
第二次世界大戦下で行われた二回目のドイチェ・マイスターシャフトである。今季は戦争にともなう公式戦中止期間などはなく、ガウリーガの日程消化もおおむね順調に進んだので、予備予選は1941年3月30日-4月6日、グループステージは4月6日開幕に始まった。NSDAP政権は、戦争中も平時と同じように娯楽を与える事で、前線の軍が順調に勝ち続けているのだと、国民に印象付けようとしていたのである[4]。
今シーズンは、サッカー界でも言語規制が行われた。「リーガ」が英語の「リーグ」に似ているという事で、ガウリーガは「シュポルトベライヒス・クラッセ」 (スポーツエリア・クラス、スポーツ地域級)に改名された。交戦国イギリスの英語が敵性言語とみなされたためである[5]。
新たな名前を得た大管区最上位リーグは、開戦に伴う経済・交通等の混乱が沈静化して、再び1グループ編成の単純なリーグ戦として運営された。しかし、戦争と領土獲得に伴う大管区リーグの増加という大きな変化もあった[6]。
ドイツはフランスとポーランドに勝利し、奪回または獲得した領土にバーデン=エルザス大管区、ダンツィヒ=ヴェストプロイセン帝国大管区、ヴァルテラント帝国大管区、ポーランド総督府を設置、それぞれスポーツ地域が新しく設置された。ただし、ダンツィヒは隣の東プロイセン大管区に組み込まれている。この中で、ポーランド総督府のガウリーガ・ゲネラル・ガヴァメントだけがDM開幕までに王者を決定できず、大会は1941年4月6日から21クラブで行われることになった。
シュポルトベライヒとその王者数は22クラブ、そのうちポーランド総督府の辞退で21クラブとなり、そして予備予選でもう1クラブ振るい落とす事になった。東部州予選 (Ostland-Qualifikation) と呼ばれたもので、ダンツィヒ=ヴェストプロイセンとヴァルテラントの王者が対戦し、本大会GS出場の20クラブ目を決める。また、グループ1に入る東部地域のクラブが2つ増えて6クラブになったので、ここでもグループ2と同じ方式が導入された。内部に3クラブずつの下部グループA・Bを編成し、双方の勝者が準決勝進出をかけてグループ決勝を戦う。グループ3・4は、従来通り1グループ制である。
決勝では1938年ポカール勝者SKラピート・ヴィーンが、過去5回優勝の前回王者FCシャルケ04を下し、初優勝した[5]。現オーストリアの (というより、戦後の東西ドイツ・統一ドイツに含まれない国・地域の) クラブがドイチャーマイスターとなった、史上唯一の例である[5]。5回連続の決勝進出を果たしたシャルケは、1.FCニュルンベルクの持つ最多優勝回数に並ぶことはできなかった。
出場クラブ
(出典:[2])
クラブ | 出場資格 |
VfBケーニヒスベルク | ガウリーガ・オストプロイセン1940-1941優勝 |
ルフトヴァッフェンSVシュテッティン | ガウリーガ・ポンメルン1940-1941優勝 |
テニス・ボルシア・ベルリン | ガウリーガ・ベルリン=ブランデンブルク1940-1941優勝 |
フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ | ガウリーガ・シュレージエン1940-1941優勝 |
ドレスナーSC | ガウリーガ・ザクセン1940-1941優勝 |
1.SVイエナ | ガウリーガ・ミッテ1940-1941優勝 |
ハンブルガーSV | ガウリーガ・ノルトマルク1940-1941優勝 |
ハノーファー96 | ガウリーガ・ニーダーザクセン1940-1941優勝 |
FCシャルケ04 | ガウリーガ・ヴェストファーレン1940-1941優勝 |
TuSヘレネ・アルテンエッセン | ガウリーガ・ニーダーライン1940-1941優勝 |
VfLケルン1899 | ガウリーガ・ミッテルライン1940-1941優勝 |
ボルシア・フルダ | ガウリーガ・ヘッセン1940-1941優勝 |
キッカース・オッフェンバッハ | ガウリーガ・ズュートヴェスト1940-1941優勝 |
VfLネッカーアウ | ガウリーガ・バーデン1940-1941優勝 |
シュトゥットガルター・キッカース | ガウリーガ・ヴュルテンブルク1940-1941優勝 |
TSV1860ミュンヘン | ガウリーガ・バイエルン1940-1941優勝 |
NSTGプラーク | ガウリーガ・ズデーテンラント1940-1941優勝 |
SKラピート・ヴィーン | ガウリーガ・オストマルク1940-1941優勝 |
FCミュールハオゼン93 | ガウリーガ・エルザス1940-1941優勝 |
オストラント予備予選の勝者 |
オストラント予備予選
クラブ | 出場資格 |
プロイセン・ダンツィヒ | ガウリーガ・ダンツィヒ=ヴェストプロイセン1940-1941優勝 |
ルフトヴァッフェンSVポーゼン | ガウリーガ・ヴァルテラント1940-1941優勝 |
オストラント予備予選
- 開催日:1941年3月30日
- 会場:プロイセンプラッツ・ビショフスベルク (ダンツィヒ)
チーム #1 | スコア | チーム #2 | ||
---|---|---|---|---|
プロイセン・ダンツィヒ | 2:2 (0:2) | LSVポーゼン | ||
プロイセン・ダンツィヒ | 中止 | LSVポーゼン | ||
LSVポーゼンがセカンドレグを棄権したため、プロイセン・ダンツィヒが本選出場を決めた。[7] |
グループステージ
グループ1
グループ1A
対象地域:ダンツィヒ=ヴェストプロイセン、ポンメルン、シュレージエン[2]。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 得率 | 点 | 出場権 | VRG | LSV | DAN | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ | 4 | 2 | 1 | 1 | 9 | 5 | 1.800 | 5 | グループA決勝進出 | — | 3–1 | 4–1 | |
2 | LSVシュテティーン | 4 | 1 | 2 | 1 | 8 | 9 | 0.889 | 4 | 3–2 | — | 1–1 | ||
3 | プロイセン・ダンツィヒ | 4 | 0 | 3 | 1 | 5 | 8 | 0.625 | 3 | 0–0 | 3–3 | — |
順位の決定基準: 1) 勝ち点; 2) 平均得点率.
グループ1A試合結果
- 開催日:1941年4月6日・13日・20日・27日、5月4日・11日
- 会場:ヤーンシュターディオン (グライヴィッツ)、アルベルト=フォルスター=カンプフバーン (ダンツィヒ)、プロイセン=プラッツ / SCプラッツ・アム・エッカーベルガー・ヴァルト (シュテティーン)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ | 3:1 (1:0) | LSVシュテッティン |
プロイセン・ダンツィヒ | 3:3 (0:1) | LSVシュテッティン |
プロイセン・ダンツィヒ | 0:0 | フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ |
LSVシュテッティン | 1:1 (1:0) | プロイセン・ダンツィヒ |
LSVシュテッティン | 3:2 (3:2) | フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ |
フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ | 4:1 (2:0) | プロイセン・ダンツィヒ |
プロイセン・ダンツィヒのホームスタジアムには、大管区指導者アルベルト・フォルスターの名前が付けられていた。[8]
グループ1B
対象地域:ブランデンブルク、ザクセン、ズデーテンラント[2]。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 得率 | 点 | 出場権 | DRE | TBB | PRA | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ドレスデナーSC | 4 | 4 | 0 | 0 | 11 | 4 | 2.750 | 8 | グループA決勝進出 | — | 5–2 | 4–2 | |
2 | テニス・ボルシア・ベルリン | 4 | 1 | 1 | 2 | 5 | 7 | 0.714 | 3 | 0–1 | — | 3–1 | ||
3 | NSTGプラーク | 4 | 0 | 1 | 3 | 3 | 8 | 0.375 | 1 | 0–1 | 0–0 | — |
順位の決定基準: 1) 勝ち点; 2) 平均得点率.
グループ1B試合結果
- 開催日:1941年4月11日・14日・20日・27日、5月4日・11日
- 会場:シュターディオン・アム・ゲズントブルネン / オリンピアシュターディオン (ベルリン)、スラヴィア・スタディオン / スパルタ・スタディオン (プラーク)、シュターディオン・アム・オストラーゲヘーゲ (ドレスデン)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
テニス・ボルシア・ベルリン | 3:1 (2:1) | NSTGプラーク |
テニス・ボルシア・ベルリン | 0:1 (0:0) | ドレスデナーSC |
NSTGプラーク | 0:0 | テニス・ボルシア・ベルリン |
ドレスデナーSC | 4:2 (3:1) | NSTGプラーク |
ドレスデナーSC | 5:2 (0:2) | テニス・ボルシア・ベルリン |
NSTGプラーク | 0:1 (0:0) | ドレスデナーSC |
テニス・ボルシア-ドレスデナーSCは、1941年4月14日のイースターマンデーの開催。[9]
グループ1決勝
会場:シュタディオン・アム・オストラゲヘーゲ、ヤーンシュタディオン
チーム #1 | 合計 | チーム #2 | 第1戦 | 第2戦 |
---|---|---|---|---|
ドレスデナーSC | 6–0 | フォアヴェルツRaSpoグライヴィッツ | 3–0 | 3–0 |
グループ2
グループ2A
対象地域:ミッテ、ノルトマルク、オストプロイセン[2]。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 得率 | 点 | 出場権 | HSV | SVJ | KON | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ハンブルガーSV | 4 | 3 | 1 | 0 | 9 | 5 | 1.800 | 7 | — | 2–1 | 3–1 | ||
2 | 1.SVイエナ | 4 | 1 | 1 | 2 | 9 | 8 | 1.125 | 3 | 2–2 | — | 2–4 | ||
3 | VfBケーニヒスベルク | 4 | 1 | 0 | 3 | 6 | 11 | 0.545 | 2 | 1–2 | 0–4 | — |
順位の決定基準: 1) 勝ち点; 2) 平均得点率.
グループ2A試合結果
- 開催日:1941年4月6日・13日・20日・27日、5月4日・11日
- 会場:ローテンバウム=シュターディオン / ETVプラッツ (ハンブルク)、エルンスト=アベ=シュポルトフェルト (イエナ)、ホルスト=ヴェッセル=シュタディオン (ケーニヒスベルク)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
ハンブルガーSV | 3:1 (0:1) | VfBケーニヒスベルク |
ハンブルガーSV | 2:1 (1:0) | 1. SVイエナ |
1. SVイエナ | 2:4 (0:2) | VfBケーニヒスベルク |
VfBケーニヒスベルク | 1:2 (0:1) | ハンブルガーSV |
1. SVイエナ | 2:2 (0:1) | ハンブルガーSV |
VfBケーニヒスベルク | 0:4 (0:2) | 1. SVイエナ |
グループ2B
対象地域:ヘッセン、ニーダーザクセン、ヴェストファーレン[2]。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 得率 | 点 | 出場権 | S04 | H96 | FUL | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | FCシャルケ04 | 4 | 4 | 0 | 0 | 16 | 2 | 8.000 | 8 | グループ2決勝進出 | — | 4–0 | 4–0 | |
2 | ハノーファー96 | 4 | 1 | 0 | 3 | 10 | 15 | 0.667 | 2 | 1–6 | — | 6–1 | ||
3 | ボルシア・フルダ | 4 | 1 | 0 | 3 | 6 | 15 | 0.400 | 2 | 1–2 | 4–3 | — |
順位の決定基準: 1) 勝ち点; 2) 平均得点率.
グループ2B試合結果
- 開催日:1941年4月6日・13日・20日・27日、5月4日・11日
- 会場:ヒンデンブルク=カンプフバーン (ハノーファー)、グリュックアウフ=カンプフバーン (ゲルゼンキルヘン)、シュタデイオン・ヨハンニサウ (フルダ)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
ハノーファー96 | 6:1 (2:1) | ボルシア・フルダ |
FCシャルケ04 | 4:0 (1:0) | ハノーファー96 |
FCシャルケ04 | 4:0 (2:0) | ボルシア・フルダ |
ボルシア・フルダ | 4:3 (1:1) | ハノーファー96 |
ハノーファー96 | 1:6 (0:2) | FCシャルケ04 |
ボルシア・フルダ | 1:2 (1:0) | FCシャルケ04 |
グループ2決勝
会場:シュタディオン・ローテ・エアデ、シュタディオン・ホーエルフト
チーム #1 | 合計 | チーム #2 | 第1戦 | 第2戦 |
---|---|---|---|---|
FCシャルケ04 | 3–1 | ハンブルガーSV | 3–0 | 0–1 |
グループ3
対象地域:エルザス、ミッテルライン、ニーダーライン、ズュートヴェスト[2]。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 得率 | 点 | 出場権 | K99 | KOF | HEA | M93 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | VfLケルン1899 | 6 | 4 | 1 | 1 | 19 | 12 | 1.583 | 9 | 準決勝進出 | — | 3–1 | 3–1 | 6–1 | |
2 | キッカース・オッフェンバッハ | 6 | 3 | 2 | 1 | 19 | 9 | 2.111 | 8 | 2–2 | — | 1–1 | 5–1 | ||
3 | TuSヘレネ・アルテンエッセン | 6 | 2 | 2 | 2 | 15 | 13 | 1.154 | 6 | 6–1 | 0–4 | — | 5–2 | ||
4 | FCミュールハオゼン93 | 6 | 0 | 1 | 5 | 9 | 28 | 0.321 | 1 | 1–4 | 2–6 | 2–2 | — |
順位の決定基準: 1) 勝ち点; 2) 平均得点率.
グループ3試合結果
- 開催日:1941年4月6日・13日・20日・27日、5月4日・11日
- 会場:ビーベラー・ベルク (オッフェンバッハ・アム・マイン)、ラートレンバーン・バオミンクハウスシュトラーセ (エッセン)、シュターディオン・アム・リーダーヴァルト (フランクフルト・アム・マイン)、シュポルトパルク・ホーエンベルク / ミュンガースドルファー・ラートレンバーン (ケルン)、マイナウ・シュタディオン (シュトラースブルク)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
キッカース・オッフェンバッハ | 1:1 (1:0) | ヘレネ・アルテンエッセン |
VfLケルン1899 | 6:1 (5:1) | FCミュールハオゼン93 |
ヘレネ・アルテンエッセン | 5:2 (2:1) | FCミュールハウゼン 93 |
キッカース・オッフェンバッハ | 2:2 (2:1) | VfLケルン1899 |
VfLケルン1899 | 3:1 (2:0) | ヘレネ・アルテンエッセン |
FCミュールハウゼン93 | 2:6 (0:4) | キッカース・オッフェンバッハ |
FCミュールハウゼン93 | 2:2 (2:2) | ヘレネ・アルテンエッセン |
VfLケルン1899 | 3:1 (2:0) | キッカース・オッフェンバッハ |
FCミュールハオゼン93 | 1:4 (0:2) | VfLケルン1899 |
ヘレネ・アルテンエッセン | 0:4 (0:0) | キッカース・オッフェンバッハ |
ヘレネ・アルテンエッセン | 6:1 (3:1) | VfLケルン1899 |
キッカース・オッフェンバッハ | 5:1 (1:1) | FCミュールハオゼン 93 |
- オッフェンバッハ-アルテンエッセン戦はビーベラー・ベルクで開催、観衆は5000人。[10]
- ケルン-アルテンエッセン戦は、ケルン・ホーエンベルク区のシュタディオン・ホーエンベルクで開催、観衆5000人。[11]
グループ4
対象地域:ガウリーガ・バイエルン、バーデン、オストマルク、ヴュルテンブルク[2]。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 得率 | 点 | 出場権 | RWI | M60 | SKI | NEC | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | SKラピート・ヴィーン | 6 | 4 | 1 | 1 | 24 | 5 | 4.800 | 9 | 準決勝進出 | — | 2–0 | 1–1 | 8–1 | |
2 | TSV1860ミュンヘン | 6 | 3 | 1 | 2 | 14 | 11 | 1.273 | 7 | 2–1 | — | 2–1 | 6–2 | ||
3 | シュトゥットガルター・キッカース | 6 | 1 | 2 | 3 | 11 | 16 | 0.688 | 4 | 1–5 | 3–3 | — | 2–0 | ||
4 | VfLネッカーアウ | 6 | 2 | 0 | 4 | 10 | 27 | 0.370 | 4 | 0–7 | 2–1 | 5–3 | — |
順位の決定基準: 1) 勝ち点; 2) 平均得点率.
グループ4試合結果
- 開催日:1941年4月13日・20日・27日、5月4日・11日・18日
- 会場:シュターディオン / Sportplatz an der Altriper Fähre (マンハイム)、アドルフ=ヒトラー=カンプフバーン (シュトゥットガルト)、プラター・シュターディオン (ヴィーン)、ハンス=ブラウン=カンプフバーン (ミュンヘン)、シュターデイオン・デーゲアロッホ (シュトゥットガルト)、
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
VfLネッカーアウ | 0:7 (0:2) | SKラピート・ヴィーン |
シュトゥットガルター・キッカース | 3:3 (2:0) | TSV1860ミュンヒェン |
SKラピート・ヴィーン | 1:1 (0:1) | シュトゥットガルター・キッカース |
TSV1860ミュンヘン | 6:2 (1:2) | VfLネッカーアウ |
TSV1860ミュンヒェン | 2:1 (0:0) | SKラピート・ヴィーン |
シュトゥットガルター・キッカース | 2:0 (0:0) | VfLネッカーアウ |
シュトゥットガルター・キッカース | 1:5 (0:2) | SKラピート・ヴィーン |
VfLネッカーアウ | 2:1 (2:1) | TSV1860ミュンヘン |
SKラピート・ヴィーン | 8:1 (6:1) | VfLネッカーアウ |
TSV1860ミュンヘン | 2:1 (1:0) | シュトゥットガルター・キッカース |
SKラピート・ヴィーン | 2:0 (1:0) | TSV1860ミュンヒェン |
VfLネッカーアウ | 5:3 (0:0) | シュトゥットガルター・キッカース |
準決勝
会場:ヒンデンブルク=シュタディオン (ボイテン)、ラインシュタディオン
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
1941年6月8日[12] | ||
SKラピート・ヴィーン | 2–1 | ドレスナーSC |
FCシャルケ04 | 4–1 | VfLケルン1899 |
三位決定戦
会場:シュタディオン・アム・オストラゲヘーゲ
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
1941年6月22日[13] | ||
ドレスデナーSC | 4–1 | VfLケルン1899 |
決勝
SKラピート・ヴィーン | 4–3 | FCシャルケ04 |
---|---|---|
ショース ![]() ビンダー ![]() ![]() ![]() |
レポート | ヒンツ ![]() ![]() エッペンホフ ![]() |
|
|

ラピート・ヴィーンは、オーストリア勢2クラブ目となる決勝進出を果たした。二年前の決勝では先駆者アドミラがシャルケに0-9で大敗しており、ラピートはオーストリアサッカーの評判を回復する役目を担っていたのである。だが史上初の三連覇を狙う「王様の青」ことシャルケは、この試合でも6分にハインツ・ヒンツ、7分にヘルマン・エッペンホフが決めて、幸先よく二点のリードを奪う[5]。
最終的にヒーローとなる、ラピートの主砲フランツ・ビンダーがPKのチャンスを失敗し[5]、そのまま2-0のスコアで前半が終わった。後半に入り67分にヒンツがシャルケに三点目をもたらすと、やはり彼らのタイトル防衛は確実かと思われたのだが、しかしここから試合が一変し、ラピートが激しく美しいサッカーを披露した。
失点から三分後の60分、ラピートはロングパスを受けた右ウイングFWのゲオルク・ショースが一点を返すと、62分・63分とビンダーが続けざまにネットを揺らし、たった五分間でシャルケのセーフティリードは失われた。63分の同点ゴールはラピートのこの試合二本目のPKだったが、キッカーのビンダーは前半41分すでに一本外していたにも拘らず、強靭なメンタルできっちり決めた。
その七分後ヴィリー・フィッツがシャルケMFオットー・ティブルスキーに倒され、主審アドルフ・ラインハルトがラピートに直接FKを与える。キッカーを申し出たビンダーが短い助走から止めようのないシュートを叩き込み、ラピートが4-3と逆転した[5]。残り20分は同点を狙うシャルケの一方的攻勢が続いたが、それでもラピートが守り切った。
シャルケの選手達は敗戦に納得いかない様子で、主審のおかしな判定で勝ち試合を壊されたと感じていた[15]。主将エルンスト・クツォーラは準優勝バッジの受け取りを拒否している。一方専門家からは、シャルケの自信過剰やGKハンス・クロットの度重なるミスなどが、敗因として指摘された。
脚注
- ^ Dinant Abbink (27 Apr 2023). “Germany - Championships 1902-1945” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Germany 1940/41” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1940/1941 » Finale” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
- ^ リヒテンベルガー 2005, pp. 137–138.
- ^ a b c d e f リヒテンベルガー 2005, p. 139.
- ^ リヒテンベルガー 2005, p. 100.
- ^ Kicker Nr. 14 vom 8. April 1941, S. 12
- ^ Kicker Nr. 15 vom 15. April 1941, S. 17
- ^ Kicker Nr. 15 vom 15. April 1941 und Originalprogramm vom Spiel
- ^ Kicker Nr. 14 vom 8. April 1941, S. 12
- ^ Kicker Nr. 17 vom 29. April 1941; S. 5
- ^ German championship 1941 – Semifinals Weltfussball.de, accessed: 26 December 2015
- ^ German championship 1941 – Third place game Weltfussball.de, accessed: 26 December 2015
- ^ Kicker Nr. 37 vom 16. September 1941, S. 9
- ^ リヒテンベルガー 2005, p. 140.
参考文献
- ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー『ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡』秋吉香代子 訳、バジリコ株式会社、2005年。ISBN 4-901784-92-7。
外部リンク
- ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1940-1941のページへのリンク