ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920
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シーズン | 1919-1920 |
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優勝 | 1.FCニュルンベルク (1回目) |
試合数 | 7 |
ゴール数 | 26 (1試合平均3.71) |
得点王 | ![]() ![]() ![]() (4点) |
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1919-1920 は、ドイツサッカー協会によって開催された第13回目のクラブチーム全国大会である。1.FCニュルンベルクが初優勝し、1回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2][3]。
概要
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920は第一次世界大戦による中断のため、5年ぶりの開催となった[4]。 第一次大戦はドイツ社会を大きく変化させたが、DM本大会は戦前と全く同じ方式で復活した。7つのレギオナルマイスター (南部・西部・北部・中部・ベルリン=ブランデンブルク・南東部・北東部) と前回ドイチャーマイスター (戦前最後のドイツ王者SpVggフュルト)、計8クラブによってノックアウト方式で争われる。
しかしドイツの敗戦がもたらした影響は、サッカー界にも大きな変化を与えた。北シュレースヴィヒ (→デンマーク)、ヴェストプロイセン (→ポーランド、自由都市ダンツィヒ)、エルザス=ロートリンゲン (→フランス)、オイペン=マルメディ (→ベルギー) といった領土が失われ、その影響で7つの地方サッカー協会のうち、6協会の管轄領域を縮小させた。とはいえ、以上の喪失領土はいずれも辺境のサッカー後進地域である。
また1920年代のヴァイマル共和制ドイツは、社会の多様化と分断が顕著になってきた時代でもある。八時間労働制の定着で余暇が生まれ[5]、労働者の週末の娯楽としてサッカーが定着し、彼らのスポーツにおける地位向上運動も活発化した。
まずブルジョワ主導のDFBに対抗して、労働者体操・スポーツ協会 (ATSB)が旗揚げされた。他にもカトリック教会が1921年に作ったドイツ青年活力スポーツ協会 (DJK)、1925年創設のドイツ体操団体 (DT)、共産主義者による1931年創設のロートシュポルト (ATSBの分派) などなど、多様な社会勢力が、DFBとは異なる独自のサッカー大会を開催した。
ヴァイマル共和制時代は、ドイツサッカーを支える原動力がブルジョワから労働者に移った時代であり、戦後復興期に最初の大きなブームが巻き起こった[6]。クラブの新設ラッシュに加えて観客動員数も増加、戦前最後の決勝の観衆は6000人、今季の準々決勝・決勝は約7160人ほどだったのに対し、今大会決勝は35000人と、初めて万単位の観客を集めた。
ピッチ上に目を転じると、今季出場クラブ中、本大会出場歴があるのはVfBライプツィヒとSpVggフュルトだけであり、ほか6クラブはすべてニューフェイス。そのひとつ、1.FCニュルンベルクが今季初めてドイツ王者となった。ここからニュルンベルクは、1920年で最も傑出したクラブへと昇り詰めていくこととなり、選手たちは伝説的な地位を築いた[7]。
出場クラブ[2]
クラブ | 出場資格・所属リーグ |
FCティタニア・シュテッティン | バルティッシェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
フェアアイニヒテ・ブレスラオアー・シュポルトフロインデ | ズュートオストドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
SCウニオン・オーバーシェーネバイデ | ベルリナー・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
VfBライプツィヒ (1893年) | ミッテルドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
SVアルミニア・ハノーファー | ノルトドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
VfTuR1889ミュンヘン=グラートバッハ | ヴェストドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
1.FCニュルンベルク | ズュートドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920優勝 |
SpVggフュルト | 前回王者 |
準々決勝
開催日: 1920年5月16日[8]
会場:Platz von Schlesien Breslau (ブレスラウ)、Platz an den Brauereien (マンハイム)、ホルシュタイン=シュターデイオン (キール)、シュポルトプラッツ・アム・ツォー (ハレ・アン・デア・ザーレ)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
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1.FCニュルンベルク | 2–0 | VfBライプツィヒ (1893年) |
フェアアイニヒテ・ブレスラオアーSpfr. | 3–2 | SCウニオン・オーバーシェーネバイデ |
SpVggフュルト | 7–0 | VfTuR1889ミュンヘン=グラートバッハ |
FCティタニア・シュテッティン | 2–1 aet | SVアルミニア・ハノーファー |
準決勝
開催日: 1920年5月30日[8]
会場:ヴァッカーシュターディオン・デブラホーフ (ライプツィヒ)、プロイセン=プラッツ (ベルリン)
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
1.FCニュルンベルク | 3–0 | FCティタニア・シュテッティン |
SpVggフュルト | 4–0 | フェアアイニヒテ・ブレスラオアーSpfr. |
決勝
1.FCニュルンベルク | 2 - 0 | SpVggフュルト |
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レポート |
得点ランキング[9]
選手 | クラブ | 試合数 | 得点数 | |
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1. | ![]() |
SpVggフュルト | 3 | 4 |
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SpVggフュルト | 3 | 4 | |
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1. FCニュルンベルク | 3 | 4 |
脚注
注釈
出典
- ^ Dinant Abbink (27 Apr 2023). “Germany - Championships 1902-1945” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ a b “Germany 1919/20” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1919/1920 » Finale” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 59-60頁
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 53-55頁
- ^ a b リヒテンベルガー/秋吉 2005, 62頁
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 64頁
- ^ a b “Deutsche Meisterschaft 1919/1920 » Spielplan” [German championship 1919–20] (ドイツ語). Weltfussball.de. 12 January 2016閲覧。
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1919/1920 » Torschützenliste” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
参考文献
- ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー 秋吉香代子訳 (2005). ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡. バジリコ株式会社. ISBN 4-901784-92-7
外部リンク
- ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1919-1920のページへのリンク