トルイ家との協同とチャガタイ・オゴデイ家との対立
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「バトゥ」の記事における「トルイ家との協同とチャガタイ・オゴデイ家との対立」の解説
オゴデイ死後、バトゥとルーシ遠征中に険悪な仲となったグユクが第3代皇帝になろうとすると、これに強硬に反対してモンケを擁立しようとした。グユクの生母のドレゲネはグユクの推戴を狙いモンゴル帝国全土の王族たちに、オゴデイ没後の摂政として自らの主導でクリルタイの開催を執拗に説いて回った。バトゥはオゴデイが後継者と指名していたのはシレムンであったことを主張し、帝国西方の重鎮として不参加を表明してこのドレゲネの動きを牽制した。このため帝国は5年近く皇帝(カアン)位が空位のままという状態に陥った。 1246年ついにソルコクタニ・ベキをはじめとするトルイ家の皇子たちや東方のテムゲ・オッチギンらがドレゲネのクリルタイ開催の要請を承諾して参加を表明したため、バトゥも急ぎクリルタイへの参加を表明した。しかしオゴデイ、チャガタイ、トルイ家の王族たちのほとんどが参加し帝国各地の諸侯や帰順王侯が参加するココ・ノウルで開催されたクリルタイに間に合わず、ジョチ家は既にモンゴル本土に来着していたオルダやシバン、ベルケ、トカ・テムルら兄弟たちの参加のみで当主バトゥの不在のまま、グユクが第3代皇帝に推戴された。 このため、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き皇帝(カアン)に即位した後も、グユクから再三にわたり臣従の誓約に赴くようのモンゴル本土への召還命令を受けていたが、病気療養を理由に拒み続けた。一時、グユクの宿敵として危険視され窮地に追い込まれたが、ソルコクタイ・ベキらがモンゴル中央の動静を逐一彼に伝えてグユクとの対処を進言していた。 1248年、以前から患っていたリューマチの療養のためエミル近辺のオゴデイの放牧地へ行幸すると称し、グユク自ら遠征軍を率いて討伐しにやって来た。しかし同年4月にグユクがビシュバリク付近で急死したため、モンゴル帝国は最有力王族とモンゴル皇帝との内戦という最悪の事態を回避することができた。グユクの死について『集史』では彼の父のオゴデイと同様に平時からの過度の酒色を原因としているが、甚だ緊迫した状況下でジョチ家・トルイ家にとって都合の良い時期の死であるため、バトゥによる暗殺説も一部では有力視されている。
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