ディオンとの軋轢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/24 09:52 UTC 版)
「ディオニュシオス2世」の記事における「ディオンとの軋轢」の解説
父親ディオニュシオス1世の死去を受けて、紀元前367年にディオニュシオス2世が30歳足らずで即位すると、彼の近い親族であり、プラトンからその思想・哲学を伝授されていた当時40歳過ぎのディオンは、ディオニュシオス2世を哲人王に、また、シュラクサイを法治国家にするべく、画策を始めた。師であるプラトンをディオニュシオス2世の教師として招請し、当時60歳頃だったプラトンは自身2回目のシケリア旅行を決行する(紀元前367年-紀元前366年)。ディオンとプラトンは、ディオニュシオス2世の教育を試みるが、僭主周辺の流言飛語により、ディオンはやがて追放され、プラトンも城壁内に軟禁状態に置かれる。 シュラクサイとカルタゴの戦争に乗じて、帰国の合意をとりつけ、なんとかアテナイに帰還したプラトンだったが、5年ほど経ち、ディオニュシオス2世自身と、追放中のディオンの双方から、再度哲学教育を強く要請されたことで、66歳頃、3回目のシケリア旅行を決行する(紀元前361年-紀元前360年)。しかしディオンの財産処分に関する嘘をつかれて逗留を余儀なくされた挙句、敵視されて城外に追い出されるなど散々な目に遭い、アルキュタスの助けによって辛くもアテナイに帰国する。 こうしたディオニュシオス2世の様々な暴虐ぶりを聞いた追放中のディオンは、憤慨し、プラトンの制止や和解勧告も聞かず、紀元前357年に挙兵し、シュラクサイを占拠する。こうしてシュラクサイは内乱・混乱に陥っていく。 こうした経緯は、プラトンの『第七書簡』の他、ディオドロスの歴史書、コルネリウス・ネポスやプルタルコスの英雄伝でも詳しく述べられている。
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