テオンとヒュパティアの学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:00 UTC 版)
「アレクサンドリア図書館」の記事における「テオンとヒュパティアの学校」の解説
10世紀のビザンツ帝国の辞典であるスーダ辞典は数学者のアレクサンドリアのテオン(335年頃生-405年死)を「ムセイオンの人」と呼んでいる。しかし、古典学者エドワード・J・ワットによれば、テオンはおそらくかつてアレクサンドリア図書館を保持していたヘレニズム時代のムセイオンを模倣した「ムセイオン」と呼ばれる学校の長であり、両者の間には名称以外ほとんど繋がりはなかった。テオンの学校は閉鎖的かつ高い名誉を持っており、その信条は保守的であった。テオンとヒュパティアはどちらもセラペウムで教えていた好戦的なイアンブリコス派新プラトン主義者たちとは何の関係もなかったと思われる。むしろ、テオンはイアンブリコスの教えを拒否していたように見え、純粋なプロティノスの新プラトン主義を教えることに誇りを持っていたかもしれない。400年頃、テオンの娘ヒュパティア(350-370年頃生-415年死)が彼の学校の長の地位を継承した。彼女は父のようにイアンブリコスの教えを拒否し、プロティノスが定式化したオリジナルの新プラトン主義を強く信奉していた。 セラペウムの破壊を命じた司教テオフィロスはヒュパティアの学校に対しては寛容であり、彼女の学生のうちの2名に自身の管轄地域の司教になるように勧めさえした。ヒュパティアはアレクサンドリアの人々に非常に人気があり、深い政治的影響力を及ぼしていた。テオフィロスはアレクサンドリアの政治的構造を尊重し、ヒュパティアがローマ人の総督との間に構築した密接な関係にも異議を唱えることはなかった。ヒュパティアは後にローマのアレクサンドリア総督(英語版)オレステス(英語版)と、テオフィロスの司教位を継承したアレクサンドリアのキュリロスの政治的摩擦に関与した。ヒュパティアがオレステスとキュリロスが和解するのを妨げたというデマが広まり、415年3月、彼女はペテロ(Peter)という名の誦経者(lector)に率いられたキリスト教徒の群衆によって殺害された。彼女の学校の長を継ぐ後継者はなく、その死後、学校は解体した。
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