タイによる併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:14 UTC 版)
タイがビルマによって滅ぼされ、タークシン王朝をもって復興し、ラーマ1世がチャクリー王朝を建てる18世紀には、パタニ王国は非常に衰退していた。パタニはアユタヤ王国の後継者を自称する新生タイへの服属を拒否したため、タイ軍がパタニに遠征し、この時ラーマ1世の子であるスラシー親王はスルタン・ムハンマドを殺してパタニを完全に支配下に置いた。この時の記録によると、4,000人にも及ぶパタニ人がバンコクに連れて来られ、運河を掘る労役をさせられたという(その後彼らは宗教面以外で同化し、タイ人を自称)。 その後パタニは、1791年から1808年までタイ政府への抵抗を試みているが、タイはパタニを分割統治することでその力を削ぎ、抵抗を押さえ込んだ。パタニは、1837年にもモハマッド・サードの大乱を起こしてタイ政府を悩ませた。1882年にはパタニは正式にタイへ編入され、タイ人知事がタイ中央から派遣されるようになった。1902年にパタニ国のスルタン制は廃止され、続く1909年にタイ政府が大英帝国との間に結んだバンコク条約(英泰条約(英語版))によりパタニ領のタイ領化が国際的に承認され、旧パタニ王国はモントン(州)を形成した。一方、パタニ諸邦のうち、クランタン・ケダ・トレンガヌ・プルリスはイギリスに割譲され、後にマレーシアの一部を構成することになる。その後1933年のモントン解体により、深南部三県が成立した。
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