タークシン王朝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > タークシン王朝の意味・解説 

トンブリー王朝

(タークシン王朝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/28 09:55 UTC 版)

トンブリー朝
ธนบุรี
1767年 - 1782年
(国旗)

トンブリー王朝の版図
公用語 タイ語
首都 トンブリー
元首等
1767年 - 1782年 タークシン
変遷
建国 1767年
滅亡 1782年

トンブリー王朝(トンブリーおうちょう、タイ語:ธนบุรี、1767年 - 1782年)は、タイ王国の正統王朝の一つ。首都はトンブリー中国潮州系タイ人・タークシン王(鄭昭)によって創設された。

歴史

今のチャクリー王朝の前の王朝にあたり、アユタヤ王朝が破壊された翌年(1767年)に、バンコクチャオプラヤー川西岸に建設された。その翌年の1768年8月にタークシンは、に使者を派遣し冊封を求めた。しかし乾隆帝はタークシンに否定的評価を下した。清朝との交渉は1769年に好転し、交易を再開し、武器や戦略物資等の獲得の道を開いた。

一方、1769年にピマーイナコンシータマラートを占領、また同年にバッタンバンシエムリエプを併合し、東北のロムサック、南部のパタニ、トレンガヌをも支配下に置き、1770年にはピサヌロークとその周辺を制圧し、北部地方の統治権を奪取した。しかし、国内の4勢力を退けてもなお、現在のカンボジアベトナム国境西端に脅威の勢力が存在した。1771年にハーティエンを攻撃したが失敗に終わる。1777年に西山の乱が起こり、宗主権争いをしているハーティエンの勢力を滅亡に追い込んだ。対中交渉を再開始し、数回目の使者を送り、冊封を認められ、硫黄、鉄の輸入に成功している。

タークシン王一代限り15年間続いたが、王朝末期、タークシン王が乱心を来たし、部下のチャオプラヤー・マハーカサット・スックに殺され、チャオプラヤー・マハーカサット・スック(ラーマ1世)が王に就いたことで幕を閉じた。

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「タークシン王朝」の関連用語

タークシン王朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



タークシン王朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトンブリー王朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS