セロロンの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「セロロンの遠征」の解説
1747年6月、ジョージ・クローハン(英語版)のような交易者に影響されたイギリス人商人のオハイオ領土への進出、拡張を懸念したヌーベルフランス総督ロラン=ミシェル・バラン・ド・ラ・ガリソニエールは、ピエール=ジョゼフ・セロロン・ド・ブランヴィユ(英語版)に、この地への軍事遠征をさせた。この遠征の目的は、この土地が元々はフランスのものであったという主張の確認であり、イギリスの影響がどれほどのものかを判断し、またインディアンにフランスの力を見せつけるためでもあった。 セロロンの遠征軍は約200人のトゥループ・ド・ラ・マリンと30人のインディアン兵で構成されていた。遠征は3000キロにも及ぶもので、1749年の6月から11月の間に行われた。セントローレンス川を上り、オンタリオ湖の北岸に沿って進軍を続け、ナイアガラ[要曖昧さ回避]で連水経路を横切り、そしてエリー湖の南岸をたどった。チョトーカ・ポルタージュ(現在のニューヨーク州バルセロナ)で一行は内陸のアレゲニー川の方向へ進んだ、この川は現在のピッツバーグに通じており、ここにセロロンは、オハイオ領土はフランスの領土であると刻んだ鉛の銘板を埋めた。そしてイギリス人商人や毛皮交易者と出くわすたびに、セロロンは領土はフランスのものであり、ここから出て行くようにと告げた。 セロロンの遠征軍がログスタウンについた時、地元のインディアンたちが、オハイオ領土を所有しているのは我々であり、フランスがどう言おうと、自分たちはイギリス人との取引をするだろうと告げた。セロロンはそのまま南へ遠征を続け、オハイオ川とマイアミ川(Great Maimi Rivers)が合流する地点に出た。ここはピカウィラニの集落のちょうど南に当たっていて、マイアミ族の本拠地だった。このマイアミ族の族長メメスキアはオールド・ブリトンと呼ばれていた。セロロンは彼に、長老たちがイギリスとの取引を続けるのなら、悲惨な結果になるだろうと告げたが、オールド・ブリトンはこの警告を無視した。セロロンは失望し、1749年11月にモントリオールへ戻った。 セロロンは遠征を広範囲にわたって述べた報告書で、こう書いている。「私が言えるのは、この地域のインディアンたちはフランスに対してよからぬ印象があり、イギリスにはひたすら尽くしている。彼らがどうすればフランスのもとに戻ってくるかはわからない。セロロンがモントリオールに戻るかなり前に、オハイオ領土の状況を綴った報告書はロンドンとパリで評判になり、英仏の実力行使を喚起するものとなっていた。マサチューセッツ湾直轄植民地の総督で、領土拡張の提唱者で、人を説得する能力に特に秀でていたウィリアム・シャーリーは、イギリス植民地の入植者は、フランスがいる限り安全ではないと明言した。
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