セベク崇拝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/02 09:33 UTC 版)
第12王朝から第13王朝の間(紀元前1991年 – 紀元前1650年)に、セベクの崇拝は特別な重要性をもっていた。そして、何人かの統治者はセベクを自分の即位名に取り入れた。セベクの神殿(en)の大部分は、「鰐が普通にみられるエジプトの地域」に所在していた。セベクの崇拝は元々は、いくつかの寺院が今でも存続しているAl Fayyum(ファイユーム)の周辺で隆盛を極めていた。その地域は、Arsinoe(英語版)が「クロコディロポリス(英語版)」または「鰐の町」としてギリシア人に知られていたほど、セベクに密接に関連していた。 もう一カ所の主要な崇拝の中心地はコム・オンボであり、そこは鰐がしばしば日に当たって温まる、ナイル川の砂州の近くだった。オンボスとも呼ばれたその地で、セベクはセトと同一視されるようになった。しかしやがてセトへの信仰が廃れてくると、セベクの姿は鰐だとされるようになった。第22王朝の頃には、セトの存在自体が抹消されたりセトの神像がセベクやトートのものに代えられたりするに至った。セベクの神殿のいくつかは、神聖な鰐を飼育する池を保有していた。これらの鰐は最も良い肉切れを与えられ、すっかり飼い馴らされたようになった。 セベクは、テーベや、ファイユーム近くのモエリス湖(英語版)周辺でも崇拝された。モエリス湖では、末期王朝時代になっても、湖で飼育する鰐の頭部に宝石や黄金の飾りをつけて神聖なものとして扱った。この鰐はセベク自身とみなされ、崇拝する人々が与えた食糧を鰐が食べると、人々に神の恩恵がもたらされると信じられた。 セベクは後の時代にはラーと習合しセベク・ラーとなり太陽神として崇拝された。さらに時代が下るとゲブと同一視されることもあった。オシリス信仰では、ホルスが父オシリスのばらばらにされた遺体をナイル川から拾い集める際にセベクの姿をとったとされている。
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