ズルフィカール・ハーンによる政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/03 16:20 UTC 版)
「ジャハーンダール・シャー」の記事における「ズルフィカール・ハーンによる政治」の解説
放蕩者で最もできが悪かったジャハーンダール・シャーが勝ち残れた理由は、当時最も有力だった貴族ズルフィカール・ハーンの支援を受けたからだった。そのため、ジャハーンダール・シャーの治世は、宰相であり財務大臣のズルフィカール・ハーンがその実権を握っていた。 ズルフィカール・ハーンは敗者の側についた多数の貴族を財産没収にするかあるいは処刑したものの、宮廷での自身の立場を確保し、帝国のために奔走した。 ラージプートとの間では、マールワール王アジート・シングをグジャラート太守に、アンベール王ジャイ・シング2世はマールワー太守に任命した。マラーターとの間では、1711年にズルフィカール・ハーンが結んだ私的な取り決めを、代理人ダーウード・ハーン・パンニーに再確認させた。アーグラ付近のバラトプルに依ったジャートのチューラーマン、ブンデールカンドの領主チャトラサールを懐柔した。しかし、1708年以降から対立していたパンジャーブのシク教徒とは講和せず、引き続き反乱を鎮圧しようとした。 また、ズルフィカール・ハーンは、先代バハードゥル・シャー1世によってジャーギールが膨張していたことをみて、それを抑えることで財政改革を図った。軍政面では、貴族や軍人に与えたマンサブ通りに兵員を維持させ、軍隊を維持しようとした。 ただ、ズルフィカール・ハーンは税収の確保のために、イジャーラーと呼ばれる徴税請負制度を設けたことは一つの過ちだった。この制度はアクバル時代の財務大臣トーダル・マルがかつて行ったように、一定の地租を徴収する代わりにその一定額を納める契約をザミーンダールらと結ぶものであった。ズルフィカール・ハーンはこの制度でザミーンダールらに絞れるだけ絞ることを許したため、農民たちはさらに搾取され、より一層の苦しみを与えることとなった。
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