スタジオ・ワン時代
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「ボブ・マーリー」の記事における「スタジオ・ワン時代」の解説
1963年の暮れにスタジオ・ワンから発表したシングル「Simmer Down」が、1964年2月にはJBC(ジャマイカ放送)などで1位を獲得、約80,000部を売り上げる大ヒットとなった。のちにレゲエの象徴ともなる名曲「One Love」も、この時期にボブによってスカ・バージョンで作られている。1966年までに、ブレイスウェイト、ケルソ、スミスがザ・ウェイラーズを去り、ボブ・マーリー、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュの3人が残された。ちなみに、「タフ・ゴング」というニックネームがついたのはこの頃である。 1964年、祖父オメリア・マルコムが他界。農地の一部を相続する。1965年、同じくスタジオ・ワンで活動していたグループ、ザ・ソウルレッツ(リタ・アンダーソンが在籍)の指導を任される。 1966年2月10日、リタ・アンダーソン(19)と結婚。そして翌朝には、職を求め(スタジオ・ワンでは曲がヒットしてもメンバーに金が入ってくることはほとんどなかった)デラウェア州ウィルミントンに住む母セデラの下へ飛び発つ。ドナルド・マーリーという名前でクライスラー社の自動車工場のライン工員、デュポン社の実験研究室の助手として働いた。また、駐車場の係員やレストランの皿洗いなどのパートも経験したといわれている。カトリック教徒として育ったボブだったが、セデラの影響から離れている間に「ラスタファリ運動への関心をさらに高め」ており、この頃からドレッドヘアにするため髪を伸ばし始めた。ボブのいない約8ヶ月間、ザ・ウェイラーズは彼抜きで活動を続けた。同年10月にキングストンへ戻った後、正式にラスタファリに改宗。 1966年、デラウェア州での仕事で得た資金をもとに、バニー、ピーターと共に自らのレーベル「ウェイリン・ソウルム」(Wail 'n' Soul'm)を発足。しかし短期間で経営難になり、ウェイリン・ソウルムは業界から姿を消した。
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