ジフコフ政権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 08:32 UTC 版)
「ブルガリア人民共和国」の記事における「ジフコフ政権時代」の解説
トドル・ジフコフは、ブルガリアをその後33年間に渡って支配した。その間、ジフコフは完全にソビエト連邦に忠実な存在であり続けた。ユーゴスラビアならびにギリシャとの関係は修復された。コストフなど「チトー主義者」とされた人物に対する裁判を、公式に遺憾とした。1956年のポーランド動乱やハンガリー動乱のような民主化を求める暴動はブルガリアでは起こらなかったが、このような騒動が発生しないように映画は制限され、知識・文学の自由への制限を強化した。 首相のユゴフは1962年に退陣し、党書記のジフコフが首相の座も手にすることになった。1971年には新憲法が制定され、ジフコフは自身を国家元首である国家評議会議長とし、スタンコ・トドロフ(Станко Тодоров )を首相とした。ジフコフは、ソビエト連邦で1964年におこったニキータ・フルシチョフからレオニード・ブレジネフへの政権交代を生き延び、1968年におこったチェコスロバキアへの軍事侵攻(チェコ事件)に加わることによりソビエトへの忠誠を示した。一般的に、ブルガリアはソビエト連邦の影響下にあった東側諸国の中で最もソビエト連邦に忠実であったと評される。1968年にジフコフはブルガリアがソビエト連邦に加入してその第16番目の構成国となる考えを非公式に提案したとも言われている。しかしながら、ブレジネフはこの案を受け入れなかった。
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