ショスタコーヴィチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:39 UTC 版)
「エフゲニー・ムラヴィンスキー」の記事における「ショスタコーヴィチ」の解説
ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチと親交を結んでおり、1937年に交響曲第5番を初演して以来、多くの曲を初演した(第6・8・9・10・12番等)。うち第8番はムラヴィンスキーに献呈されている。第二次大戦中ショスタコーヴィチが悲痛な運命を描いた交響曲第8番で当局の不興を買って窮地に陥った際、交響曲第5番を積極的にプログラムに取り入れたムラヴィンスキーが聴衆の感動を誘い、ショスタコーヴィチの立場を救ったという逸話も残されている。ムラヴィンスキーが生涯を通じて二番目に演奏回数が多かったのは交響曲第5番であった。 ショスタコーヴィチとの関係は、第13番の初演をムラヴィンスキーが断ったことで、いったん切れてしまう。初演を断った理由としては、当時、妻が不治の病を患っており、ムラヴィンスキーが強い心痛を抱いていたことや、曲に強い政治性を感じたことなどがあるといわれる。しかしその後二人の関係は回復し、世界初演こそしなかったものの、第15番はムラヴィンスキーの手によってレニングラード初演された。 録音に関しては、交響曲全集を残しておらず第5・6・7・8・10・11・12・15番のみである。声楽付きの交響曲は録音だけでなく、演奏記録も残っていない。そのほとんどがライブ録音であるが、第15番以外はスタジオ録音が残されている。また、自身の出身地であり活動拠点でもあった「レニングラード」の名を冠した第7番は1953年に一度スタジオでモノラル録音したのみで、以後はライブも含めて録音しなかった。第9番はムラヴィンスキーが初演したものの、すぐにレパートリーから外され、録音も現在確認されていない。 交響曲以外にも、ヴァイオリン協奏曲第1番をオイストラフと、チェロ協奏曲第1番をロストロポーヴィチと共演し、初演したり、オラトリオ「森の歌」も初演した。
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