シュヴァリエとの別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/19 17:00 UTC 版)
「ミスタンゲット」の記事における「シュヴァリエとの別れ」の解説
しかし、シュヴァリエが成長し、彼の名声が高まるにつれて、2人の不和が深まっていった。その背景にはシュヴァリエの女性問題があり、直接的には芸に関してもお互いの自尊心から衝突するようになっていた。 ミスタンゲットが自分のギャラを削ってまでも劇場にシュヴァリエの採用を受け入れてもらった経緯がありながら、レヴュー『パリ・キ・リ』でシュヴァリエは、看板の文字を2人とも同じ大きさにするよう要求し、レヴュー中に彼ひとりのリサイタル形式の場面を設けるよう求めたという。さらに、1920年のレヴュー『ジャズるパリ』では、予定されていた歌「私の男 (Mon homme)」(「私のいい人」とも)を当初ミスタンゲットが気に入らず、シュヴァリエが「それなら僕がもらおう」と言い出したのにミスタンゲットは怒り、「あなたはいつも私の歌を奪ってしまうのね。これは私のものよ!」と叫んだという。とはいえ、ミスタンゲットが黒いドレス姿で歌ったこの歌は大ヒットし、1921年には英語歌詞「My man」が書かれてアメリカでも人気となった。 一方、シュヴァリエにとっても、ミスタンゲットの感情変化の落差の大きさや気まぐれな言動に不満が募ってきていた。この結果、シュヴァリエは去り、「カジノ・ド・パリ」でのレヴュー『ざわめくパリ』において、ミスタンゲットはアール・レスリーを新たなパートナーとする。このレヴューで歌った「もう、うんざりよ (Moi j'en ai marre)」がヒットする。
※この「シュヴァリエとの別れ」の解説は、「ミスタンゲット」の解説の一部です。
「シュヴァリエとの別れ」を含む「ミスタンゲット」の記事については、「ミスタンゲット」の概要を参照ください。
- シュヴァリエとの別れのページへのリンク