シェンジ包囲戦と南インド諸王朝との交戦とは? わかりやすく解説

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シェンジ包囲戦と南インド諸王朝との交戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 19:07 UTC 版)

デカン戦争」の記事における「シェンジ包囲戦と南インド諸王朝との交戦」の解説

アウラングゼーブ南インド逃げたマラーターを軍に追撃させ、同年9月ラージャーラーム籠城するシェンジ城を包囲させた。 アウラングゼーブ遠征行っている間、北インド東インド各地では、戦争による莫大な戦費重税となり、その生活が困窮したため、農民ザミーンダールなど人々反乱相次いだ。だが、アウラングゼーブはそんなことも気に掛けず、特に反乱激しかったベンガル鎮圧部下ムルシド・クリー・ハーン任せ自身シェンジひたすら包囲し続けたまた、アウラングゼーブ南インド拡大した領土統治するため、1692年4月カルナータカ太守役職設け部下ズルフィカール・ハーン任命しアルコット首府統治させた。 ムガル帝国南インド侵入したことで、シェンジ包囲中にもかかわらず帝国軍南インドの諸王朝とも交戦状態に入ったそのなかでも、タンジャーヴール・マラーター王国シヴァージーの弟ヴィヤンコージー建てた王朝)は特に激しく抵抗しシェンジ包囲解きマラーター王国助けるために、シェンジ包囲帝国軍攻撃することもあった。ほかにも、ムガル帝国マドゥライ・ナーヤカ朝ケラディ・ナーヤカ朝チトラドゥルガ・ナーヤカ朝といったナーヤカ朝とも交戦状態に入りマドゥライ・ナーヤカ朝女王マンガンマールはシェンジ援兵を出すほどだった。 1697年には、カルナータカ太守の軍18,000タンジャーヴール・マラーター王国の軍40,000大規模な衝突をしたことも知られている。 しかし、ムガル帝国の軍は南インドムスリムからは歓迎されケーララ地方のアラッカル王国の王アリー・ラージャ・アリー2世はマーピラ(ムスリム農民)を援軍にまわし、タミル地方ムスリムであるマフブーブ・ハーンも指揮官一人となった。 この包囲戦には、カルナータカ地方傭兵集団隊長であり、のちマイソールハイダル・アリーの父でもあるファトフ・ムハンマド参加しており、彼はロケット砲で城を攻撃したこのためアウラングゼーブシェンジ包囲辞めず、南インド諸勢力苦しめられながらも、何年砲撃戦続け敵方疲弊待った。 そして、1689年1月8日ムガル帝国の軍はシェンジ落としたものの、ラージャーラーム捕えることはできず、逃げられてしまった。

※この「シェンジ包囲戦と南インド諸王朝との交戦」の解説は、「デカン戦争」の解説の一部です。
「シェンジ包囲戦と南インド諸王朝との交戦」を含む「デカン戦争」の記事については、「デカン戦争」の概要を参照ください。

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