サン・セバスティアンの略奪と炎上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 14:34 UTC 版)
「サン・セバスティアン包囲戦」の記事における「サン・セバスティアンの略奪と炎上」の解説
城内に入ると、連合軍は店にブランデーとワイン、そして馬をたくさん見つけ、軍の多くが暴徒と化した。酔っていて、おびただしい損害を出していたことに立腹していた兵隊は暴れて回り、略奪して市に火を放った。住民も多く殺戮したが、その人数は不明や1,000人など資料によって違う。一部のイギリス軍人は略奪を止めようとしたが、無視されたか酔った兵士に脅された。また多くが見ないふりをし、さらに略奪に参加した者もいた。生還者の1人であったガブリエル・セレスは連合軍が「残虐の極みであった。彼らは住民を殺害したり怪我を負わせたりして、女性の大半を強姦した」と述べた。目撃者によると、火事はその夜にいくつかの家で始まったという。現地人のドミンゴ・デ・エチャヴェはイギリス兵士の言葉「あの家が燃えているのを見たか?気をつけて、明日は全部がこうなる。」を覚えていたという。市は7日間燃え続け、火が消える頃には600の家、市庁舎など建物の大半が焼失していた。 火事の後、市議会や生還者たちはスビエタ地区で会議を開催して市の再建を議決した。前の市議会がフランスに協力していたため、新しい市議会議員が任命され、ウェリントンに向けて戦勝を祝う手紙を送った:98。手紙では救済金の支払いも求めたが、ウェリントンは拒絶して、返信で二度と手紙を送らないよう要求した:98。彼は略奪の責任はフランスにあるとして、11月2日にレサカでイギリス軍は火事の責任を負わないと返答した:157。11月、市議会は「イギリス軍とポルトガル軍による残虐行為」についての人民裁判を行なったが、2人の女性が渡されたアンケートに答えただけだった:8。 この惨劇は毎年8月31日のキャンドル・ビジルで記念されている。
※この「サン・セバスティアンの略奪と炎上」の解説は、「サン・セバスティアン包囲戦」の解説の一部です。
「サン・セバスティアンの略奪と炎上」を含む「サン・セバスティアン包囲戦」の記事については、「サン・セバスティアン包囲戦」の概要を参照ください。
- サン・セバスティアンの略奪と炎上のページへのリンク