サンバージーの殺害とデカンの制圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 19:07 UTC 版)
「デカン戦争」の記事における「サンバージーの殺害とデカンの制圧」の解説
ビジャープル王国とゴールコンダ王国の征服後、アウラングゼーブは再びマラーターとの戦いに戻った。 一方、マラーター王サンバージーも、1686年に 南インドのマイソール王国がムガル帝国の結ぼうとしたため、これと戦っていたが、戦闘を切りやめてデカンとの戦いに戻った(しかし、マイソール王国とムガル帝国との間で、マイソールが帝国に臣従するかわり、その領土にマラーターが侵入した場合、帝国がこれを撃退するという条約が結ばれた)。。 1687年以降、アウラングゼーブとサンバージーは、2年近くにわたり戦ったが、戦線は依然として膠着状態だった。 だが、2月1日、アウラングゼーブはサンガメーシュワルのサンバージーの陣に奇襲をかけ、彼と宰相をはじめとする25人のマラーター側の指揮官をとらえた。サンバージーは捕えられたのち、拷問にかけられ、3月5日にアウラングゼーブは彼と宰相などの家臣をビーマ川の河畔で殺害した。 サンバージーの死をうけて、その弟ラージャーラームがマラーター王となったが、同月25日にアウラングゼーブは部下アサド・ハーンとその息子イティハード・ハーンに王国の拠点ラーイガド城を包囲させ、11月3日に城を落とし、サンバージーの息子シャーフーを捕虜とした。 ラージャーラームは陥落に城を離れており、11月1日にプラタープガド城に逃げていたが、そこも危なくなったため、1690年4月にこの地も捨て、南インドのシェンジ(ジンジー)を拠点とした。こうして、1690年までにアウラングゼーブはデカンを制圧し、帝国の4分の1に当たる領土を版図に加え、ムガル帝国の勢力は南インドにまで及んだ。
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